会津藩家訓十五箇条
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処(よ)るべからず 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決し
て従うべからず
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言、一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏(おそ)るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まいない=賄賂わいろ)をおこない 媚(こび)をもとむべからず
一、面々依怙贔屓(えこひいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(べんぺきべんぼう=媚び諂う者、人の意見に反対、攻撃する者)をとるべからず
一、賞罰は家老のほかこれに参加すべからず。もし位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍のものをして、人の善悪を告げしむべからず
一、政事(まつりごと)は利害を持って道理をまぐるべからず。評議は私意をはさみ人言を拒ぐべからず。思うところを蔵せずもってこれを争う
べし。はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
一、法を犯すものはゆるすべからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり。歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若(も)し志(こころざし)をうしない遊楽をこのみ、馳奢をいたし、土民をしてその所を失わしめばすなわち何の面目あって封印を戴き土地を
領せんや、必ず上表蟄居(ちっきょ=出仕、外出せず自宅で謹慎する事)すべし
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり <保科正之家訓>
会津藩校 日新館「什の掟」
江戸時代、会津藩では同じ町に住む6歳から9歳迄の子供を10人集めて組を作りその組を「什(じゅう)」と呼び、その長を什長といいました。毎日この什の掟を復唱し違反がなかったか反省会をしたと云われます。戊辰戦争で有名な白虎隊の少年たちもこの「什」のメンバーでした。今でも、地元では、小学校でこの「什の掟」の事を教えられます。曰(いわ)く。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなくてはなりませぬ
一、虚言(きょげん=うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱いものをいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
一、ならぬことはならぬものです
<会津藩校 日新館「什の掟」>藤原正彦著「国家の品格」より引用
新井白蛾
あらい はくが(1715~1792)江戸時代中期の儒学者
言葉花咲く者は 心かならず実なし
口に蜜を造る者は 心かならず針あり
みだりに誉(ほこ)る者は みだりにそしる
みだりに悦ぶ者は みだりに悲しむ
利欲に耽る者は 長く人倫の道を失う
色欲に惑う者は 時に親戚(父母・養父母)にそむく
文妄(ぶんぼう=言葉の偽り)にして邪智有る者は人の害をなす事多し
書を読て邪智有る者は 国の大義を害す
心に感じてなす事は 末を遂げて成就す
気に感じて始る事は 暫くにして消散す <冠言>
明智光秀
あけちみつひで(1528~1582)戦国時代 戦国大名「本能寺の変」で信長を討った武将
仏の嘘をば方便と言い、武士の嘘をば武略と言う
時は今 天が下しる 五月哉 (ときはいまあめがしたしるさつきかな)
(本能寺の変の直前、京都愛宕山に詣でて、連歌会で詠んだ歌。「時は今」を明智家の先祖、美濃土岐氏(ときし)になぞらえて読めば、明智一族が天下を取る、という意味にもとれる)
心しらぬ 人は何とも 言わばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ <辞世の句>
順逆二門無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来て一元に帰す <辞世の句>
伊勢貞丈
いせ さだたけ(1781~1784)江戸中期の故実学者
五常(儒教の教えで、人が常に守るべき五つの徳目・道徳)
ちなみに、侍だけが着用する、袴の前の襞が五つに折れているのは、この五常「仁義礼智信」を表している。袴の後ろの二つの襞は「忠孝」の二文字を表している。
一、五常と云(いう)は、仁義礼智信の五ツ也。此(こ)の五ツは天然自然(てんねんじねん)人に生まれ付きたる根性也、此の五ツの根性を
常に用いざれば、かなわざる事なる故(ゆえ)、五常と云う也(なり)。
一、仁と云うは、人を初(はじめ)として、生ある物をあわれみめぐみ、思いやりふかく、いたわる根性を仁と云也、仁は慈悲の事と心得べ
し、父母に孝行するを始めとして、万事此れ仁をはなれてはならぬ事也。
一、義と云うは、義理あいの事也、我勝手にわろくして、めいわくにおもうとも、すべく筋の事をば、かならずする、我勝手に能(よ)くと
も、めいわくにおもうとも、すまじき筋の事をば、決してせぬを を義と云うなり。
一、礼と云うは、我より目上なる人をば崇め敬い、目下なる人をも卑しめず侮らず、我が身をへりくだりて人に誇らず、奢(おご)る事なきを礼
と云う也。
一、智と云うは、道理と無理、善と悪、是と非を分別するを初めとして、耳に聞かず目に見ぬ事迄も、考え知りわきまうるを智と云う也。
一、信と云うは、真実にして偽りなく、わだかまりなく、陰日向なく、一筋に誠なることを云う。信は正直の事と心得るべし、仁も義も礼も智
も信と云う物がなければ、皆偽り事となる也。右の五つの根性を、とりうしなわぬ様に心がくべし。我がままなる心を持つ時は、右の根性
消え失せて、悪事をし出す也。 <伊勢貞丈家訓>
上杉謙信
うえすぎ けんしん (1530~1578) 戦国時代 戦国大名
生を必する者は死し、死を必する者は生く。
極楽も地獄もともに有明の 月ぞこころにかかる月かな
極楽も地獄も先は有明の 月のこころにかかる雲なし
心に物なき時は心広く体泰(ゆたか)なり
心に我慢なき時は愛嬌(あいきょう)失わず
心に欲なき時は義理を行う
心に私なき時は疑うことなし
心に驕(おご)りなき時は人を敬う
心に誤りなき時は人を畏(おそ)れず
心に邪見(じゃけん)なき時は人を育つる
心に貪(むさぼ)りなき時は人に諂(へつら)うことなし
心に怒りなき時は言葉和らかなり
心に堪忍(かんにん)ある時は事を調う
心に曇りなき時は心静かなり
心に勇ある時は悔やむ事なし
心賤(いや)しからざる時は願い好まず
心に孝行ある時は忠節厚し
心に自慢なき時は人の善を知り
心に迷いなき時は人を咎(とが)めず <名将言行録>
運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり
(運不運を自分で決めることはできない。しかし、鎧を胸につけることで自分の体を守る事ができるように、自分の命や生きる信条は自分で守ることができる。そして成功は自分の積極的な行動と努力で手に入れることができる)
人の落ち目を見て 攻め入るは本意ならぬ事なり
四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒 <辞世の句>
上杉鷹山
うえすぎ ようざん (1751~1822)江戸時代中期 出羽国米沢藩第九代藩主
J・F・ケネディ大統領が、尊敬する政治家として名をあげた一人。
成せばなる成さねばならぬ何事もならぬは人のなさぬなりけり
国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、私すべき物には無之候(これなくそうろう)。人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。国家人民のために立ちたる君にて、君の為に立たる国家人民には無之候。<伝国之辞>
物を贈るには薄くして誠あるを要す。物厚くして誠なきは人に接するにあらず。
織田信長
おだ のぶなが (1534~1582)戦国時代 戦国大名
人間(じんかん)五十年 下天の内にくらぶれば夢幻のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきや <謡曲 敦盛>
人を用うる者は能否を択ぶべし なんぞ新古を論ぜん
(人を選ぶ時は能力をもって選ぶべきである 出自や肩書で選んではならない) 信長の人を知り、善(よ)く任ずること斯(かく)の如し。衆是れを以て之に服せり
鍛錬した武辺の方が、生まれながらの武辺よりも勝っている
勝 海舟
かつ かいしゅう (1823~1899) 江戸時代後期~明治初期 直新陰流剣術免許皆伝 幕臣 長崎海軍伝習所後、咸臨丸にて渡米、江戸無血開城に尽力。明治維新後は、明治政府の参議・海軍卿・枢密顧問官を歴任後、伯爵に叙せられる。日本海軍創設者。
生業(なりわい=職業)に貴賤(きせん)はないけど、生き方には貴賤がある。
愚かなる女も猛きもののふも、つひに草むす屍(かばね亡骸)なりけり 桐の葉の一葉散りにし夕べより落つるこの葉の数をますらん
勝海舟が竜馬の元海援隊の一人で明治政府外務大臣を務めた陸奥宗光の死を悼んで作った哀歌 <氷川清話>
時勢の代わりというものは妙なもので、人物の値打ちが、がらりと違ってくるよ。 <氷川清話>
人間、数ある中には、天の教えを受ける勘を備えている者がある。
上がった相場は、いつか下がる時があるし、下がった相場も、いつか上がる時があるものさ。その間十年、焦らず屈んでおれば、道は必ず開ける。
功名をなそうという者には、とても功名はできない。戦いに勝とうという者には、とても勝ち戦はできない。何ごとをするにも、無我の境に入らなければいけないよ。
男児世に処する、ただ誠心誠意をもって現在に応ずるだけのこと。あてにもならない後世の歴史が、狂と言おうが、賊と言おうが、そんな事は構うものか。
事を成し遂げる者は、愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない。
いわゆる心を明鏡止水のごとく、研ぎ澄ましておきさえすれば、いついかなる事変が襲うてきても、それに対処する方法は、自然と胸に浮かんでくる。いわゆる物来たりて順応するのだ。俺は昔からこの流儀でもって、種々の難局を切り抜けてきたのだ。それからまた、世に処するには、どんな難事に出逢っても、臆病ではいけない。さあ、なにほどでも来い。おれの身体が、ねじれるならば、ねじってみろ、という料簡で事をさばいてゆくときは難時が到来すればするほど、面白味がついてきて、物事は造作もなく落着してしまうものだ
事、未だ成らず、小心翼々。事、まさに成らんとす、大胆不敵。事、既に成る、油断大敵。 <遺訓>
コレデオシマイ。<臨終の言葉>
桂小五郎(木戸孝允)
かつらこごろう(きどたかよし)(1833~1877)長州藩士・勤皇の志士・明治政府の元勲・政治家
人の巧(こう・たくみ)を取って我が拙(せつ=つたないこと)を捨て、人の長(ちょう=長所)を取って我が短を補う
(他人の長所を見習って自分の短所を補う。自分を成長させようと思えば、他人に対する羨望や嫉妬が起こる隙はない。すべてのことが自分を成長させる糧・原動力になる)
鎌田柳泓
かまた りゅうおう(1754~1821)江戸時代後期の心学者
仁を積むための八則
第一に、怒りの心を断つべし
第二に、誹謗(ひぼう)の言(ことば)を出(い)だすべからず
第三に、驕慢(きょうまん)の心を断つべし
第四に、妄(みだり)りに財宝を費やすべからず
第五に、人に接(まじわ)る時 常に顔色を柔和にすべし
第六に、言(ことば)を謹んで妄(みだ)りに悪口などすべからず
第七に、若(もし)家に害なき所の財宝あらば貧者または乞食などに施すべし
第八に、物の命を惜しむべし <心学五則のうち「積仁」八則>
楠木正成
くすのきまさしげ(1294~1336)鎌倉時代末期~南北朝時代 足利尊氏とともに建武の新政の立役者となる。尊氏の離反後は、南朝方、後醍醐天皇に忠義を尽くし湊川にて戦死した南朝方の英雄
七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候え。<太平記 巻十六>
天下の士卒に先立って草創の功を志(こころざし)とする上は、節に当たり義に臨んでは命を惜しむべきにあらず<太平記 巻三>
足る事を知って及ばぬ事を思うな<楠公家訓>
大将は智恵をもって肝要とす。智恵なき者は万事にまどいあるものなり。知恵に大小あり。智恵大なれば、天下を治めても不足なく、智恵小さきなれば、一国一城も治りかねるものなり。しかしながら大将は、大なる智恵も細なる智恵も、なくてはかなわぬものなり。智恵は生まれ付にありというも、その智恵をみがかざれば、正智いずることなし。智恵に自慢おごりて、みがかざる大将は、皆代々持ち来る国を失い、家を亡ぼすものなり。<桜井之書>
黒田孝高 如水
くろだよしたか じょすい(1546~1604)戦国時代~江戸時代初期 戦国大名 高山右近と並ぶクリスチャン大名 洗礼名はシメオンと言う。
自ら活動して他を動かしむるは水なり。常に自己の進道を求めてやまざるは水なり。障害に逢い激してその勢力を百倍しうるは水なり。自ら清うして他の汚れを洗うは水なり。洋々として大洋をみたし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霧と化し凝っては玲瓏たる鏡となりてしかもその本性を失わざるは水なり。<黒田如水(官兵衛)水五則 原文は王陽明との伝あり>
我、人に媚びず、富貴を望まず。
軍(いくさ)は「いちかばちか」と心得よ。才知があり、目先のことを予想できると却って大功をたてることはできぬ。<常山紀談>
神の罰より主君の罰恐るべし、主君の罰より臣下の罰恐るべし、其故(そのゆえ)は神の罰は祈りてもまぬるべし、主君の罰は詫事(わびごと)して謝すべし、只(ただ)臣下百姓にうとまれては必ず国家を失う故(ゆえ)祈りても詫事しても其罰(そのばつ)はまぬがれがたし、故に神の罰主君の罰よりも臣下万民の罰は尤もおそるべし。
大将たる人は、威厳というものがなくては、万人を押さえることができぬ。さりながら、悪く心得て、威張ってみせ、下を押さえ込もうとするのは、かえって大きな害である。 <黒田如水教諭>
息子の黒田長政に対しての遺言
軍(いくさ)は万死に一生を得るが習いである。「いちかばちか」と心得よ。汝は才知があり、目先の事を予想できるがゆえにかえって大功をたてることはできぬ。続いて如水は突然飯盛り箱を取り出した。「形見だ」と言って息子長政に示した。「国を富まし、士卒を強くするの根本一大事は食物ーその象徴がこれだ。ゆめゆめ忘れてはならぬ」
黒田長政
くろだ ながまさ (1568~1623)戦国時代~江戸初期 戦国大名 黒田如水の長男
「異見会の三つの掟」 黒田長政は生存中、毎月日を決めて「異見会」を開いていた。その三つの掟とは、一、身分を忘れること、二、何でも言い合っても後にしこりを残さないこと、三、秘密を守ること、である。出席者は、部屋の釈迦像に向かい、手を合わせてこの三つを誓う。この「異見会」は幕末まで続き、黒田家の安泰の礎となった。
兵法は平法と心得よ(居ながらにして、天下を平らげることこそ真の兵法。民百姓まで安楽にあってこそ兵法である)<嫡男忠之への遺言>
剣道道歌
手の内のできたる人のとる太刀は心にかなう働きをなす
稽古をば疑うほどに工夫せよ解きたるあとが悟りなりけり
斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
悪念の起こるところを斬り払うこれが宝の剣なりけり
癖が出て弱くなったと知らずして同じ強さと思うはかなさ
法定(型稽古)は学ばんほどに道遠し命のあらんかぎりつとめよ
道場に入るべき時は身をただし心の曇りなきように
年ごとに咲くや吉野の櫻花木を斬りてみよ花のあるかは
剣術道歌
稽古とは一より始め十に行き十より還る元のその一<直新陰流>
剣術の稽古は人に勝たずして昨日の我に今日勝つと知れ<梶派一刀流伝書>
突けば槍払えば薙刀打てば太刀杖はかくにもはずれざりけり<神道夢想道杖術道歌>
気は長く心は丸く腹立てず己小さく人は大きく<鞍馬流>
小早川隆景
こばやかわ たかかげ (1533~1597)戦国時代 戦国大名(毛利元就の三男)
分別は久しく思案して遅く決断すべし。分別の肝要は仁愛にあり、断ずるには仁愛を基とせざるべからず。仁愛の欠けたる決断はことごとく曲事なり。
自分の好きなことは、自分にとって毒だと思え。修行中の者は、自分にとって嫌なこと、理解するのが難しいことに立ち向かって行け。そういう難儀を乗り越えることによって、自分を鍛えろ。自分の好みに合ったものだけを取り入れるな。自分の苦手なことにこそ立ち向かって行け。
意見をして見るに、直ちに請け合う者に、その意見を保つものなし 意見をする人の詞(ことば)をよく聞きて我が心に考へ、合点ならぬと思ふところをば、一ト問答(ひともんどう)も二タ問答(ふたもんどう)もし、理に詰まりてのち、尤(もっと)もと請ける者は、後までその意見を用うる者なり<名将言行録>
西行法師(佐藤義清)
さいぎょう ほうし (さとう のりきよ)(1118~1190)平安末期~鎌倉時代の武士・僧侶・歌人
願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月(もちづき)の頃
来む世には心の中にあらはさん あかでやみぬる月の光を
花見ればそのいわれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける
さらぬだに 世のはかなさを思ふ身に 鵺(ぬえ)なきわたるあけぼのの空
年月をいかでわが身におくりけぬ 昨日の人も今日はなき世に
いかでわれ今宵の月を身に添えて 死出の山路の人を照らさん
西郷隆盛 南洲
さいごう たかもり なんしゅう (1823~1877)幕末の志士 薩摩藩藩士 軍人・政治家
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が真の足らざるを尋ぬべし。
「敬天愛人」→天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり。(キリスト教の聖書の影響からきた言葉との説あり)
子孫の為に美田を買わず。
急速は事を破り、寧耐は事を成す。<西郷南洲翁遺訓>
「獄中感あり」
朝(あした)に恩遇を蒙(こうむ)り夕べに焚阬(ふんこう=生き埋めの刑)せらる
人生の浮沈は晦冥(かいめい=日光が雲に隠れて暗くなる)に似たり
縦(たと)い光を回(めぐ)らさずとも葵は日に向かう
若し運を開く無くとも意は誠を推さん
洛陽(京都)の知己皆鬼(ちきみなおに=勤皇の志士の同志は皆死に)と為り
南嶼(なんしょ=南の島)俘囚(ふしゅう)独り生を窃(ぬす)む
生死何ぞ疑わん天の附与なるを
願わくば魂魄(こんぱく)を留めて皇城を護らん
西郷隆盛が藩主 島津久光に逆らった刑で、徳之島・沖永良部島に流された時に詠んだ漢詩 当時の南洲翁の心境がよく出ている。
道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。(中略) 総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。<西郷南洲翁遺訓>
誤(あやまり)を改むるに、自ら誤りてと気づかばそれにて善(よ)し。そのことばをば棄てて顧みず、直ちに一歩を踏み出すべし。誤を悔しく思い取り繕わんと心配するは、たとえば、茶碗を割り、そのかけたものを合わせ見ると同様で詮なきことなり。<西郷南洲翁遺訓>
坂本龍馬
さかもと りょうま (1836~1867) 幕末の勤皇の志士 土佐藩士
世の中の人は何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る。<龍馬の手紙より>
丸くとも一かどあれや人心(ひとごころ)あまりまろきはころびやすきぞ。<龍馬の手紙より>
人間と云ふものは世の中の蠣殻(かきがら)の中にすんでおるものであるわい、おかしおかし。<龍馬の手紙より>
日本を今一度せんたく致し申し候(そうろう)<龍馬の手紙より>
これしかない、というのは世にない。人より一尺高くから物事を見れば、道は常に幾通りもある。<司馬遼太郎 龍馬がゆく>
金より大事なものに評判というものがある。世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。<司馬遼太郎 龍馬がゆく>
人間好きな道によって世界を切り拓いて行く 。<司馬遼太郎 龍馬がゆく>
佐藤一斎
さとう いっさい (1772~1859) 江戸後期の武士・儒学者 幕府昌平坂学問所塾長 著書「言志四録」は西郷隆盛の終世の愛読書で、坂本龍馬始め勤皇の志士達の愛読書でもあった。今日に至るまで、長く読み継がれている。
「少にして学べば、即ち壮にして為すあり。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず」(若いうちに学んでおけば、大人になった時には、人の為になることができる。大人になって学んでおけば、年をとっても気力や精神力は衰えることなく元気でいられる。年をとっても学ぶことを続ければ、益々高い見識や品性をもって社会に向かうことができ、死んでもその業績は語り継がれる」
<言志四録 三学戒>
聖人、死に安んず、賢人、死を分とす。常人、死を畏る<言志四録>
少年の時は当(まさ)に老成の工夫をすべし、老成の時は当に少年の志気を存すべし。<言志四録>
一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ、一灯を頼め。<言志四録>
島津斉彬
しまづなりあきら(1809~1858)江戸時代後期~幕末
薩摩藩11代当主・島津家第28代当主。殖産興業・富国強兵を目指し成功した幕末の名君。西郷隆盛・大久保利通などの維新の立役者を見出し育てた。死因は毒殺と言われている。
一、人心の一致一和は政治の要目なり
一、民冨めば国富むの言は、国主たる人の一日も忘るべからざる格言なり
一、人君たる人は愛憎なきを要す
一、凡(およ)そ人は一能一芸なきものなし、其長所を採択するは、人君の任なり
一、既往の事を鑑(かんが)みて、前途の事を計画せよ
一、勇断なき人は事を為す事能(あた)わず
一、国政の成就は、衣食に窮(きゅう)する人なきにあり <島津斉彬家訓>
相続はしたが、予は薩摩藩を自分の所有物とは思っておらぬ。これは辱(かたじけな)くも天子様からお預かりしたものである。ゆえに民が衣食のことで困窮するならば、第一に朝廷に対して申しわけが立たぬ。また、国家の動乱は人心の動乱から起こり、人心の動乱の基は十に八、九は米価にある。金銀を蓄えることばかり考えず藩庫を開いて、窮乏する民を救わねならない。
善行とても前後をよく考えなければ難を呼ぶ。人事も同様、時が熟するのを待たねばならない。薩摩隼人は勇壮無比で知られる。しかしながら、今、第一に求められているのは堪忍の二字である。(高崎崩れと呼ばれるお家騒動の後、ようやく初老にして藩主になった斉彬が反対派に対して報復人事をしなかった。不平を言う家臣たちに対して、その理由を述べた言葉)
島津義久
しまづよしひさ(1533~1611)戦国時代から安土桃山時代の武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。
島津家第16代当主。
一、百姓を憐れむことをもって、憲法の第一とする。民の飢えや寒さを思い、貧窮の苦悩を知ること。
一、家の造りを立派にすることは、古の賢王が堅く禁じたことである。
一、罰を薄くして賞を厚くせよ。
一、民の耕作の隙を見て、これを召し使うことが肝要である。
一、主人の利益を基とし、いやしくも私利を貪ることがあってはならない。
一、民の利益を先にして、己の利益を後にせよ。
一、欲しいままに民のものを取ってはならない。民が貧しければ、主に財が無くなるものである。例えて言えば、枯れた木の本のようなもので
ある。民は主の財である。ゆるがせにしてはならない。
一、人の心を養うのをもって情とする。眷属をかえりみることを忘れてはならぬ。
一、威勢をもって人を屈服させれば、その身体は屈従したようでも、心は従わない。
正直の徳をもって民を従いさえすれば、身命を軽んじて、謀反の心を起こすようなことはないのである。
一、下郎の科をかれこれいってはならぬ。下郎の無礼に対しても同様である。
一、讒言(ざんげん)と讒訴(ざんそ)とを用いてはならぬ。虚言や中言を信用してはならぬ。
一、たとい愛している者に対しても、科があったならば、処罰せよ。憎んでいる者に対しても、忠義の行いがあったならば、賞を惜しんではな
らぬ
一、家を治めるほどの者は、また、国を治めることもできる。ただ、民を憐れむ者を、君の器と見なす。
一、人が罵詈雑言したとて、これをそのまま受け取って、咎め立てをしてはならぬ。
一、隠し立てしなければ恥ずかしいようなことは、してはならぬ。人の目は天にかかっているものである。
一、独り言であっても、卑怯な言葉を使ってはならぬ。人の耳は壁についているものである。
一、利巧じみたことを言わないこと。
一、古い反故を読んではならぬ。人の書き物などをみだりに取って見てはならぬ。
一、悪い若党を使ってはならぬ。
一、悪い友達と交わってはならぬ。<島津義久公二十箇条の掟書>
大道寺友山
だいどうじ ゆうざん (1639~1730)江戸時代初期~中期の武士・軍学者・兵法者「武道初心集」「岩淵夜話」「落穂集」の著者
武士たらんものは、正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて、箸を取り初(そむ)るより、其(その)年の大晦日の夕に至る迄、日々死を常に心にあつるを以て、本位の第一と仕(つかまつ)るにて候(そうろう) 死をさへ常に心にあて候へば、忠孝の二つの道にも相叶ひ、万(よろず)の悪事災難をも遁(のが)れ、その身無病息災にして、寿命長久に、あまつさへ其人柄までよろしく罷(まか)り成り、其徳(そのとく)おほき事に候 (中略) 貴きも賤しきも人は死を忘るる故に過食大酒淫欲等の不養生を致し脾臓の煩いを仕出し思いの外なる若死にをも致し、たとひ存命にても何の用に立たざる病者とはなり果て候。死を常に心にあつる時は、其身の年も若く、無病息災なりといへども、兼ねて補養の心得を致し、飲食を節に仕り、色の道をも遠ざけ、嗜み慎み候故に、其身も壮健に候。扨(さて)こそ無病息災にて、寿命までも長久なりとは申(もうす)にて候。<武道初心集>
高杉晋作
たかすぎ しんさく 幕末の長州藩士 (1839~1867)
まけてのく人をよわしと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。
おもしろきこともなき世をおもしろく <辞世の句>
生を見ること死の如くば死は即ち生 <西行を咏ず>
友の信を見るには、死、急、難の三事をもって知れ候(そうろう)
万物元来始終有り すべてのものにはもともと命の始まりと終わりがある
人生況や(いわんや)百年の躬(きゅう)少なし 人は百年をこえて生きる人は少ない
名を競い利を争う 名利を競って、己の利益のみを追求し、人と争う
営々として没す このような事を繰り返して人は死んでゆく
識(し)らず何の娯(たの)しみか そこに何の生きる楽しみがあるのだろうか
此の中に存ぜん その中に生きる楽しみは存在しない
武田信玄
たけだ しんげん(1521~1573)戦国時代 戦国大名
人は石垣 人は城 人は堀 情けは味方 仇は敵 <黒田節の一節>
凡(およ)そ戦勝ち五分を以て上と為し、七分を中と為し、十分を以て下と為す、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りを生ず
<名将言行録>
人は、少し鈍なる者を、仕入れたるが善き<名将言行録>
大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流<辞世の句>
弓矢の儀、取様の事、四十歳(よそじ)より内は、勝つように、四十歳より後は敗けざるやうに < 甲陽軍鑑 品第三十九>
我が国を滅ぼし、我が家を破る大将四人まします。第一番は馬鹿なる大将、第二番には利根過ぎたる大将、第三番には臆病なる大将、第四番に強過ぎたる大将。<甲陽軍鑑 品第十一>
われ人を使うは、人をば使わず、その業(わざ=能力)を使うなり。<名将言行録>
大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが最も重要であ る。<甲陽軍艦>
沢庵宗彭
たくあん そうほう(1573~1646)安土桃山~江戸時代初期 臨済宗の僧 京都大徳寺154世住持 柳生但馬守宗矩や宮本武蔵の禅の師。「不動智神妙録」は禅を以て武道の極意を説いた最初の書物。「剣禅一如(剣禅一昧)」の境地を説いた。
心を何処に置こうぞ、敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働きに心を取らるるなり。(中略)葉一つに心を取られ候わば、残りの葉は見えず。一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候。是を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候。<不動智神妙録>
人は皆、我が飢えを知りて、人の飢えを知らず。<玲瓏日記>
用心とは、心を用(もち)うると書申候(かきもうしそうら)へば、言葉にも色にも出し候(そうろう)ては用心に成不申候(なりもうさずそうろう)。
<細川光尚宛書状>
人の良し悪しを知らんと思わば、その愛し用ふる臣、または親しみ交わる友を以て知れ。<不動智神妙録>
伊達政宗
だて まさむね (1567~1636) 戦国武将
仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる。智に過ぎれば嘘をつく。信に過ぎれば損をする。
<伊達政宗公 五常訓>
気ながく心おだやかにして、よろづに倹約を用い金銀を備ふべし。
倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり。この世に客来たと思へば何の苦もなし。
朝夕の食事はうまからずとも褒めて食うべし。元来客の身になれば好き嫌いは申されまじ。 <伊達政宗壁書>
今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇(おいとま)申すがよい。
大事の儀は、人に談合せず、一心に究めたるが善(よ)し
禍(わざわい)は内より起こりて外より来たらず
この世に客に来たと思えば何の苦もなし
曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く <辞世の句>
千葉周作成政
ちば しゅうさく なりまさ (1793~1856) 江戸時代末期 北辰一刀流開祖
上達の場に至るに二道あり、理より入るものあり、業より入るものあり、何れより入るも善しといへども、理より入るものは上達早し、業より入るものは上達遅し。
極意とは己が睫毛のごとくにて近くにあれどもみえざりにけり
雨あられ雪や氷とへだつれどとけては同じ谷川の水
我が体は破軍の星の形にて敵する方へまはす剣先
一道を極めようとすれば、権威にいつまでも服従しているものではない。
餓死を恐れていては、男子、なにごともできますまい。 <司馬遼太郎「北斗の人」より>
塚原卜伝高幹
つかはら ぼくでん たかもと (1489~1571) 戦国時代 鹿島新当流開祖
武士(もののふ)の心のうちに死のひとつ忘れざりせば不覚あらじな
武士(もののふ)の生死ふたつを打ち捨てて進む心にしくことはなし
武士(もののふ)の学ぶ教えは押しなべて その極みには死のひとつなり <加島新当流・塚原卜伝高幹「卜伝百首」より>
東郷平八郎
とうごう へいはちろう(1848~1934)幕末の薩摩藩士 西郷隆盛・大久保利通の後輩。薩英戦争・戊辰戦争に従軍。維新後はイギリス留学後、帝国海軍の軍人となり、艦長・提督・元帥を務める。日清・日露の戦争に従軍。日露戦争では、日本の10倍以上の国力のロシアのバルチック艦隊を撃破、ほぼ完全勝利に導いた。人類の歴史上はじめて有色人種が白色人種の侵略を打ち破った海戦であった。白人植民地主義の世界の歴史を転換させた功績は偉大である。アジアやアラブ、黒人などの有色人種、ロシアの植民地だった国はこの勝利に狂喜乱舞したと歴史は伝えている。ちなみに、この時の戦費(戦争国債)に資金協力してくれたのが、ロシアでの迫害に苦しむユダヤ人を助けようとした、アメリカ系ユダヤ人(ユダヤ資本=クーン・ローブ商会バックにロスチャイルド資本)だった。(出典はNHKのドキュメント番組)第二次大戦中、日本の軍人は、ユダヤ人迫害を逃れて日本や満州国に来たユダヤ人数万人をドイツの圧力をはねのけて救っている。戦争国債の借金は、第二次大戦後の戦後復興期の20年間でやっと返し終えたという。日本人は借金したら必ず返す民族だという信用が世界にできた。
至誠にもとるなかりしか
言行に恥ずるなかりしか
気力に欠くるなかりしか
努力に憾(うら)みなかりしか
不精(ぶしょう)にわたるなかりしか <五省>
皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ!
天は正義に与(くみ)し、神は至誠に感ず
わしは、天佑や神助が、必ずあるものと信じている。ただ、それは正義あっての天佑、至誠あっての神助だ
徳川家康
とくがわ いえやす (1543~1616)戦国大名 江戸幕府初代将軍
人の一生は重荷を背負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は武運長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて、負くること知らざれば、害その身に至る。己を責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。 <徳川家康公遺訓より>
主人の悪事を見て諫言(かんげん)する家老は、戦場にて一番槍を突きたるよりも、遥かに増したる心緒(こころね)なるべし
凡(およそ)人の上に立って下(しも)の諫(いさ)めを聞かざる者の、国を失い、家を破らざるは、古今ともこれなし
良将の人を持ちうるは、其(その)長ずる所を取れり、譬(たと)えば良医の薬を用うるが如し、其能否(そののうひ)を知りて、之(これ)が方剤(ほうざい=薬を調合する事)を為せり、故(よ)く能(よ)く病を治せり
重荷が人をつくる。身軽足軽では人は出来ぬ。
藤堂高虎
とうどうたかとら(1556~1630) 戦国時代~江戸時代初期 戦国大名 伊賀上野藤堂藩祖 戦国時代生涯に渡って、七度も主君を替えた処世術に長けた武将。身長190cmの偉丈夫だった。築城の名人で伊賀城始め全国の有名城を築城している。明治維新では、藤堂藩は幕府を見限り、これまた官軍側に寝返っている。
上として人を御疑い候へば、下また上を疑い、上下疑い、これある時は、上と下
(上に立つ者は必ず下の者を信じなければならない。下の者を疑えば、必ず自分も疑われる。上下が疑い合う疑心暗鬼が、その家を滅ぼす)
<名将言行録>
我が女房に情(つれ)なくあたる者あり。大いに道に違(たが)いたることなり
小事は大事、大事は小事と心得べし <名将言行録>
仁義礼智信、一つも欠ければ諸道成就せず
豊臣秀吉
とよとみ ひでよし (1536~1598) 戦国時代~安土桃山時代 初めて全国統一を果たした武将・天下人・関白・太閤
豊臣関白の御時、驕れる者久しからずといふ落書ありしに、関白の御返書に、驕らぬ者も久しからずとおほせられし <西川如見 町人嚢>
戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである
主人は無理をいうなるものと知れ
人と物争うべからず、人に心許すべからず
ひそかに我が身の目付に頼みおき、時々異見を承り、我が身の善悪を聞きて、万事に心を付ける事、将たるもの、第一の要務なり
露と落ち露と消えし我が身かな 難波(なにわ)の事も夢のまた夢 <辞世の句>