侍が道を歩く時

侍が歩く時は、道の中程を歩く。位が高い故(ゆえ)に道の真ん中を歩く。また、曲がり角で敵から襲われても対処出来る距離を保つ為という意味もある。さらに道の脇を行くと、忍や怪しい者と間違えられる恐れもあるからである。

 

侍は左側通行

侍が歩く時は、左側通行で歩く。これはお互いの刀の鞘(さや)が当たらないようにするためである。武士の世界は面子(メンツ)の世界、鞘が当たれば無礼者!ということで斬り合いになる。それを防ぐ為である。これが現在にも生きていて、左側通行の元になったと言われている。

 

🔶役人=武士の歩き方

目付(江戸のお役人=武士)は曲がり角を直角に曲がった。という記述が、江戸時代の回顧録を集めた「驚きの江戸時代」高尾善希 ( 柏書房刊 ) にある。現在からみるとやや滑稽ではあるが、なんば歩きをするとそういう動きになるようだ。 

 

侍の歩き方(一)

歩き方は所謂(いわゆる)なんば歩き。体の正中線を崩さずに手を振らず、上半身を不要に動かさずに歩く。手を振ると無駄な体力の消耗となるし、突然、急襲されたときに、抜刀が遅れてしまう欠点があるからである。手はだらりと下へ下ろすか、または腰か足の付け根のところに両手をつける。そして歩く時は、右手右足と左手左足を同時に動かす。現代人の歩き方は、体を不必要にねじり歩く。これは体のねじりが正中線を崩し、アンバランスにする。江戸時代の人の歩き方・体の使い方は、現代人とは随分違っていた。その当時の日本人の体や生活・職業に合った動かし方をしていたようだ。(なんば歩きが理解しにくいようであれば、映画「武士の一分」に出ておられた歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんの歩き方をご覧下さい。または、古武道家の河野善紀氏のU-TUBE「なんば歩き」をご参考下さい)

 

侍の歩き方(二)

武道を嗜む人は、道場では腰をやや落として膝をやや曲げて、大抵摺足(すりあし)で移動するのが常である。侍もまた然り。しかし、凸凹が多い道や場所、段々では転んでしまうので、摺足ではなく、正中線を出来るだけ保持しながら場所に応じた侍の歩き方をする。

 

侍の歩き方(三)

 ナンバ歩きの特徴としては、

(一)右手足を同時に出し、次に左手足を同時

に出す。

(二)足を高く上げない。

(三)足で地面を蹴らない。

(四)重心を低く保持し、身体を安定させる。

(五)体を上下に上げ下げしない。

(六)腰の高さが移動しながらも水平になるよ

うな安定感を保持する。

(七)身体を捩(ね)じらない。

(八)やや前傾の姿勢になる。

江戸時代の人々は、皆、前屈み(まえかがみ)気味の姿勢だったと言われる。

 

◆侍の歩き方(四) 

 ナンバ歩きを実感するための歩行法。

(一)自分の帯・ベルトに両手の親指をかけな

がら歩く。両手両足が同じ方向を向く身体さばきができる。

(二)侍であれば、左手で刀の鞘を握り、親指

は鍔の縁にかける。右手はすぐさま抜刀しやすいように臍前近くに手を添える。または帯の前に親指をかけておく。この状態で歩けば、ナンバ歩きになる。

(三)前を見ながら、後ろによちよちと、ペン

ギンのように歩くと自然に両手両足が同時に動いてナンバ歩きとる。

(四)両腕を腕組みしながら歩く。

(五)両腕をだらりと落としながら歩く。下半

身の動きに上半身を自然に合わせる。

(六)ランドセルやバックパックの肩ベルトを

(つか)み乍(なが)ら歩く。

(七)右手右足と左手左足を、その場で上げ下

げを交互にする。ナンバの足踏み。

(八)両手をズボンのポケットに入れて、ナン

バ歩きをする。

他にも幾つかのやり方があるので、いろいろと工夫して試してみて下さい。

 

侍の歩き方(五) 

ナンバの言葉の由来

日本の中世の時代、室町時代から戦国時代にかけて、来日したポルトガル人・スペイン人・オランダ人などの奇異な歩き方を見て、南蛮人歩き→なんば歩きと呼んだそうだ。南蛮人の身体を捩じって手足を左右交互に振って、地面を踵から足を落として踏み歩く歩き方は日本人からみれば、奇妙奇天烈で変な歩き方に見えたに違いない。その歩き方をみて、当時の日本人がつけた名前が「なんばん歩き」で、南蛮人の歩き方を馬鹿にした呼び方だった。後年、それが日本人独特の歩き方自体を逆に「なんば歩き」と言うようになった(らしい)。なんば・なんばんと言う言葉は、歌舞伎や日本舞踊で使われる専門用語で、なんば歩きは日本の芸事・歌舞伎や踊りの中から生み出されて様式化された動きであり、江戸時代以前の日本人すべてが、この歩き方をしたとは限らないという意見もあり、この「なんば歩き」に関しては、武術家・舞踊家・研究家の間では、様々な意見がある。中には江戸時代以前の日本人はすべてなんば歩きで、走れなかった…という江戸時代当時の常識から考えても「?」と思うような極端な主張もある。その理由としては、江戸の大火の時に、多くの人々が走る事ができずに逃げ遅れ、大勢の人々が焼け死んだとの文献の記録が残っているからだ。 

この「なんば歩き」に関しては、結論を出すには、まだ研究の余地が必要だ。

 

雨の日の歩き方

侍は、雨の日は傘を差すことを許されなかった(らしい)。手拭いを頭に乗せるのもしてはいけない。編笠でとりあえず雨をしのいで、あとは雨に濡れるままだった。軒下で雨宿りもしてはいけない。侍はとにもかくにも一番に、刀が濡れるのを恐れた。柄の柄皮(鮫皮・えいの皮)が水でふやけることと、刀身への水の浸入を恐れた。着物の袂や手拭いで刀の柄を守った。しかしながら、TV・映画などを見ると、同心などの、士分ではない者は傘をさしていたようだ。

 

鍔への親指掛け

侍の左手は常に左手親指を刀の鍔の縁に掛けていた。これは刀の本身が鞘から抜け落ちないように止めをかけておく為と、いつでも刀の鯉口を切り抜刀出来るようにしておく為でもある。また、走る時、上半身を屈める時なども、勿論親指を鍔に掛けていた。「首切り浅右衛門」と呼ばれた罪人の首を斬ることを生業とした、山田浅右衛門吉亮(幕末最後の浅右衛門)の明治間もない時期の写真を見ると、人差し指を鍔(つば)に掛けていた。こういう掛け方もある。

 

二人で並んで歩く時

侍が、敵や殺気を感じる相手と並んで歩く時は、右側に立たないで歩くようにした。なぜなら、左側の敵から不意をつかれて、居合の抜き打ちで斬られてしまうからである。ちなみに、居合ではこの状況で相手を迎撃する技がある。

 

狙われている侍

浪人や仇討ちに狙われている脱藩浪士などは、鯉口あたりを常に胸に付けて、ほぼ垂直くらいに刀を構えながら歩いていた。不意の急襲に備えての構えである。また、胸辺りに鯉口があるため、鞘を真下におろすだけで抜刀が素早く出来た。

 

袴と摺足

侍の袴をつけて、現代人の歩き方をすると、裾を踏んで転んでしまう。ところが袴をつけて裾を踏まないように歩くと自然に摺足になる。

 

侍同士が道ですれ違う時

侍同士が道ですれ違う時には、相手の侍としての地位が低ければ、そのまままっ直ぐに歩いて行く。同じ地位同士の侍では、お互いに左側によけて会釈し、また真ん中に戻って歩く。相手の地位が高い場合には、道の端によけて片膝をついて通り過ぎるまで頭を下げる。これが最下層の士分となる足軽や中間になると、傘や足袋は使用が許されず、雨の中でも上士に会うと道端に避けて平伏しなければならなかった。足軽・中間は最下層の侍で、藩によっては、侍とも認められない場合もあった。

 

塚原卜伝高幹卜伝百首にみる侍の歩き方

(もののふ)の道行く時に逢う人の右は通らぬものと知るべし

武士の道行連れのあるときは いつも人をば右に見て行け

武士(もののふ)の道行時に曲がり角 よけて通るぞ心ありける

武士(もののふ)の夜の道には灯火(ともしび)を中に持たせて端を行くべし(共の者に灯火(ともしび)を持たせて道の中央を歩かせ、自分は道の端を歩く。これは待ち伏せている敵に、自分の姿を見えにくくするためである)

  

侍の外出

侍は外泊を禁じられ、門限の時刻(暮六つ=午後六時)までには自宅に戻らなければならなかった。外泊、旅行には、藩命以外は出来なかった。なぜなら藩からの危急の知らせや登城の知らせ、幕府・城などからのお達しがあるときに、武士たる主人が留守などというのは、有り得ないことだったからだ。だから武士には、親戚の家に泊まるとか、家族旅行や慰安旅行などは出来なかった。親の葬式以外の、どうしてもの場合には、藩の裁可・許可が必要だった。

 

家族妻子と歩く時

江戸時代は男尊女卑が当然の社会であった。女性と一緒に歩くのは不届者・軟弱者などと呼ばれた。また妻や娘以外の女性と一緒の処を町中で見られただけでスキャンダラスな噂をたてられ、城中にまであっという間に噂が広がってしまうほどだった。武士の家族が町中を歩く時の歩き方は、武士の妻や娘は主人の後、数メートルの間隔を開けて、付き従うように歩いていた。これは武士が襲撃された場合に、妻・娘が巻き込まれないようにして、身の安全をはかるためでもあった。また、用心棒として、中間などの小者、別の侍が妻・娘の後ろに目立たぬように付添うこともあった。さらに、主人が敵に襲われた場合には、妻が手に持った荷物を敵に投擲して、自分も短刀をもって応戦する場合もあった。

  

騎馬上の作法 

自分よりも上位の武士と騎馬同士で出会った場合には、道を譲り、すれ違う方の片足の鐙(あぶみ)を外す。さらに馬上から、その武士に向かってお辞儀をする。これは「片鐙を外す」という作法で、鐙から足を外すと不安定になるため、「貴方様に対して害意や敵対心はありませぬ」と言う意思表示なのである。また、特に位の高い相手には、場合によっては馬から降りて平伏して礼をする場合もある。

 

道中で駕籠と出会った時の作法 

自分よりも上位の武士の籠と分かれば、右側によけ礼をした。自分よりも身分が低ければ、左に避けた。籠や乗り物の前を横切る事を「前渡り」と言われ、忌み嫌われ、大変に無礼とされた。参勤交代でも、この手のトラブル・刃傷沙汰が絶えなかった。

 

深夜の帰宅時

「或る人の曰く。夜陰に及んで我宅へ帰るに、必ず我が家なればとて油断して戸を開け、妄りに内へ入るべからず。提灯を先に入れ、さて片足より踏み込むべし。潜り戸などを頭より妄りに入る事、不心掛けの第一なり」侍は、太平の江戸時代に於いても用心が第一だった。

庄内藩士 小寺信正 その著書「志塵通(しじんつう)」より 

 

武士は常に両手をあける 

武士は常に両手をあけていた。両手はいつでも刀を抜刀できるようにしていた。通常、荷物は持たない。荷物がある場合には、従者に持たすか「打飼い」に入れて背中にしばりつけた。打飼いは、武士が旅行などで背中に背負う網目状の袋の事。荷物や薬や小物をこの打飼いにくるんで入れた。

 

武士の左足

ある時代考証の本の中に、江戸時代の侍の足は、左足が右足よりも異様に発達していたとの記述があった。足首・脹脛(ふくらはぎ)・太股が右足より太かった。なぜなら、重い大小の刀を腰に差して一日を過ごすのであるから、それも当然であったと思われる。 

武士の礼法

侍の作法だけに限らず、平安時代から現代まで、社会一般の礼法は「小笠原流礼法」に大きく影響されて作られている。また、階級、各藩、剣術流派、状況に応じて細かく決められたものがあるようだ。全てを網羅することは出来ないので、簡略に一般的なことのみを記すことにする。

 

侍の一般的な座り方

侍の一般的な座り方として、侍道-殺陣塾では次のようにしています。先ず、左足を半足分後ろへ引き、右手で袴の裾を左右に払い、左膝を下ろし、次いで右膝を下ろす。右膝の膝頭に左膝頭を合わせる。両膝の間隔は、男性は二拳(ふたこぶし)分、女性は一拳分(ひとこぶしぶん)開けて座る。両足は重ねずに平行に揃えて寝かす。刀は右側横に置き、刃(は・やいば)の方を自分側に向けて、鍔を自分の膝頭と同じ位置に置く。次に、礼をするときは、左右で手をつき、頭は40度くらいにまで下げ、警戒の為、周囲に目が行き届くようにしておく。手は両手で三角形を作り、頭を押さえてつけられても息ができるようにしておく。頭を上げる時は、手を右左と膝へ戻す。立ち上がる時には、右の刀を下緒ごと掴んで、左手に持ち替える。つま先を立てて、次に右膝を立てて立ち上がる。両足を一旦揃えてから、右足を一足分引いて元の位置へ戻る。そのまま前方を見すえ、周囲に警戒をしながら、後ろ足で3・4歩下がり踵(きびす)を返して室内から出る。

 

訪問時の室内での座る位置

武家や侍の自宅に訪問した場合には、自分よりも上位の武士の家ならば下座に座り、自分よりも下位の武士ならば上座に座った。

  

畳のある室内での作法

室内では畳の縁を踏んではいけないし、座ってもいけない。なぜなら、格式を重んじる侍の家では、高価な織物で家紋の入った縁があり、大変無礼となるので踏んではいけないことになっている。昔からの作法・習慣である。今も茶道の世界ではこの習慣が残っている。縁が磨り減らないようにとの配慮もある。また、畳の間の隙間をついて、床下から刃を突上げられ暗殺の恐れもあるからである。

 

「立て膝座り」という座り方 

戦国時代の座り方では武将や家来は胡坐(あぐら)か、または右片膝を立て左は胡坐(あぐら)、または左足の上にお尻を乗せて座っていた。いわゆる居合座りのような座り方である。能でもこの座り方がある。正座は、江戸時代に入ってからのようである。この時代には女性も片膝を立てて座っていた。豊臣秀吉の妻、北政所(ねね)の肖像画も膝を立てて座っている。幕末の古写真でも、侍の座る形としては、この「立て膝座り」という座り方で座る侍がことのほか多くみられる。とは言え、江戸期に入った侍は、改まった時には正座が基本となります

 

「折敷」(おりしき)という座り方

「立膝座り」と同じ座り方で「折敷」(おりしき)と言う座り方は、戦国時代に武者・槍隊・鉄砲隊などが、攻撃の前の待機姿勢、または休憩の時にした座り方。鉄砲隊は、左ひざに左腕を置いて、銃身を固定すると敵を狙いやすく、すぐに応戦できる。槍隊は槍の後部先に付いている石突で後部の地面の上に槍を突きたてておく、槍の穂先は前方に上段に向け、両手で槍を持った。この「折敷」で座った槍隊で槍衾(やりぶすま)を作れば、敵に対しての防御網となる。

この「折敷」の座り方は、突然の攻撃の号令がかかっても、すぐに立ち上がって攻撃態勢に入れた。

 

「胡坐」(あぐら)の座り

足を上下に交差させて、足を組む座り方。現代人もしている胡座の座り方。

 

「楽座」という座り方

武将の官位は、朝廷の官位(組織内)に組み込まれている。それは、征夷大将軍や陸奥守などという朝廷から称号を賜った位の武士階級の人々である。座り方は、「楽座」と言われる座り方をしていた。それは胡坐(あぐら)の形をしていて、足の裏同士を合わせて座る形である。「拝み足」または「貴人座」とも呼ばれた。宮中での貴族の座り方と同じである。

 

「安座」という座り方 

侍がラフに座る座り方、足を前後にして胡座のように座る形をとる。両足全体が床について安定感がある。

 

◆「跪坐」(きざ)という座り方

(一)正座の状態から足はつま先立ちになり、

尻を踵(かかと・きびす)に乗せた状態の座り方。

(二)襖の開け閉めの時になどに行う座り方。

(三)上司から命令を待つ間の従者などが、待

機姿勢として行う座り方。ぐに立つことができる。

(四)  姿勢をとって痺れの治まるを待つ。

(五)跪坐の跪(き)はひざまずくという意味。

 

室内における「結界」

侍が広間や小部屋やお茶室などで、相手と相対して座り、相手に挨拶をする時、扇子を膝前に置いて両手をついて挨拶をする。相手と自分を区別する「結界」として、扇子を利用する。扇子の「要」側を右にして、自分に対して扇子を並行に置く。その他「結界」は、室内に於いては、竹や縄を用いて、物の周りを囲っているもの、室内の段差(上段の間は殿様との結界) または、境界を示す物が置いてあるものから、中に入ってはいけないという意思表示になっている。例えば茶道では、風炉(炭で湯を沸かす場所)などの前に竹や屏風などを置いて仕切り「結界」としている。

 

袴捌き(はかまさばき)

袴は武士だけに許された衣装である。袴の前の五つの襞(ひだ)は、「仁・智・礼・義・信」の五つの徳「五常」を表している。後ろの二つの襞は「忠・孝」の二文字を表している。袴裁きとしては、座る時に身をかがめた時に、足の間に右手を入れて左右に裾を捌く。片膝・または両膝をつく前、あるいはついてから、膝の後ろへ扇子、または両手でぽん、と袴に折り目を入れて座る。

 

武士の真・行・草の挨拶

武士において「草」の挨拶は、往来などで同輩と会った場合には、一旦停止して両手を前に下げて礼をする。「行」の挨拶は城中などで、勤務中に上司に出会った場合には、一旦停止をして脇へ寄り、膝へ両手を当て、深々とお辞儀をする。「真」の挨拶は、殿中などで主君に相まみえる時、平蜘蛛のように這いつくばる。主君が「面を上げぃ」と言っても、畏れ多くて顔をなかなか上げられないという動作をする。「もそっと近う寄れ」と言われても、畏れ多くて近寄れない、という芝居がかった動作をとる。時としてわざとらしく見えるが、武士の礼法上のお約束事である。

 

膝行(しっこう)膝退(しったい)の作法

殿様など位の高い武士に、広間などで「もそっと近う寄れ」と言われた時、殿様の面前まで座りながら近づく作法を「膝行(しっこう)」と呼ぶ。立ったままで殿様に近寄ると、上から殿様を見下ろす事になるので、失礼に当たる。そこで膝行を行う。作法としては、正座からつま先を立てて、お尻をかかとの上に乗せる。片足を45度くらいの方向に膝を前方に立てる。次に片足のかかとを膝を立てた足のかかとに合わせる。立てた膝を倒して、別の片方の足を45度の方向へ膝を立てる。かかとをその足のかかとへ引き寄せる。これを繰り返して、適度な間合いまで、殿様に近づくのである。その際には、膝の方向を直接殿様に近づけるのは失礼にあたるので、足の角度はやや斜めに踏み出すのがよい。また、もといた場所に戻る時も、膝行で戻る。これを膝退(しったい)と呼ぶ。殿様の方を向いたまま、膝行の後ろ足捌きで戻る。または、片方の立てた足を内側へパタンと倒し、別の片方の足の膝を外側へ立てると、簡単に180度の方向転換ができる。合気道にも、この「膝行」「膝退」の型が残っている。

 

障子に映る自分の影

障子に自分の影が映るという事は、障子越しに斬られる事を意味する。室内では、行灯などの灯りに気を付ける。外から狙われやすいからである。己の影が障子に映らぬように、護身を考えて座る。

 

正座と居合術

正座は、江戸時代に室内での暗殺・刃傷沙汰を防ぐために作られた作法という説がある。確かに足が痺れては動けず、正座から立ち上がるにも数秒の時間がかかる。とはいえ、江戸時代から残る剣術では、この正座の状態から抜刀して、敵を斬撃する技が古流居合の業(わざ)の中に多数残っている。

侍の左手遣い

武士は、酒の盃を受け取る時は左手で受け取った。また、茶や酒を飲む時も左手のみで行った。右手は太刀をいつでもすぐに抜刀できるように空けていた。さらに、三方を手で持ち運ぶ時も左手で捧げ持ち、右手は太股の付け根辺りに置き、いつでも抜刀ができるようにしていた。とはいえ、何でも左手というわけではなく、箸は普通に右手で持って食事をしていた。食事中に襲われた場合には、箸を相手に投げつけて、または手裏剣のように投げて、その隙に抜刀したようだ。 

平伏(へいふく)の作法

(一)坐礼のひとつ。

(二)ひれ伏す事。

(三)両手・両肘を畳に付け、頭を地につけて礼拝する事。

(四)神や高貴な貴人に対して行う作法。

(五)居合道や抜刀道の刀礼や神前への礼拝にもこの作法が残っている。

侍は基本的に走らない

侍は、基本的に走ってはならない。いかにも悠々として歩く。侍が走る時は、一大事が起きた時だけである。侍が走れば、民衆が何事かと動揺するからだ。侍が走っていいのは、火事、地震、戦、斬り合いくらいであろうか。侍が夕立や雷鳴くらいで走ると「さむらいのくせに・・・(笑)」と嘲笑される。

 

走るときにする「股立」というやり方

股立・高股立(ももだち・たかももだち)は、武士が走る時、試合う時、力仕事をする時には、足を動かしやすく、また袴の裾を踏まないようにするためにした。股立のやり方は、袴の横の開いた隙間から、親指を入れ、上にあげる。すると袴の前裾が上に上がり、袴の裾が短くなり足を動きやすくする事ができる。前裾は前帯が止めになって、下にズレずに固定される。前・横・後ろにもする股立もある。

 

侍の走り方

侍の走り方は、いわゆる「なんば走り」。右手右足・左手左足を交互に動かしていたと伝わっている。飛脚の走り方も同じだったが、疲れにくい走り方だったと言われている。明治維新に軍隊や学校で、西洋式の歩き方・走り方が導入され、明治維新以前の走り方・歩き方は途絶えてしまった。古武術や相撲などにその残片が見られる。現在、古武道家の河野善紀氏などが、なんば歩き・なんば走りの復元に取り組んでいる。

走り方のイメージとしては、映画などで見られる、忍者や飛脚、駕籠かきなどがしている走りである。

武士の扇子の使い方

(一)扇子には夏用・冬用・軍扇・鉄扇などの 種類がある。

(二)軍扇(ぐんせん)は武将が戦場(いくさば)に携帯した扇の事で、骨は黒の塗骨、表は赤地に金の丸で日輪が描かれている。裏は紺色のに銀で月と星(多くは北斗七星)が描いあった。

(三)鉄扇(てっせん) 全体を鉄製にした扇。鉄短冊を重ねて開閉出来るようにしたもの。

また閉じた状態の扇子の形を模しただけで 開かない鉄塊だけの鉄扇もある。使われ方としては携帯用の護身具、または鍛錬用具として使われる。鍛錬用具として使われるものは、手馴し鉄扇(てならしてっせん)と呼ばれる。

(四)人を扇子で指す時には、目下の者には扇子の要の方を先にして指した。目上の者には扇子で指すようなことはしない。

(五)相手と自分との結界を示す道具として扇子を利用する。要の方を自分の右にして30センチほど前に置いて礼をする。

(六)地図や物を指し示す時には、部下が相手の時には、扇の要の方を先端にして指し示した。相手が目上・上司の場合には扇の扇面の方を先端にして指し示した。

(七)扇子を帯に差す場合には、脇差の横あたりに脇差と同じ方向に斜めに差す。指す場合には、扇子を横向きにして骨の方を見えるようにして差した。

(八)武士が舞を舞う時には扇子を「舞扇」として使う。専門の能や舞の流派などによっては定められた舞扇の種類があるが、武士は自分の扇子を舞扇に代用する

(九) 物を相手に渡す時、三方や盆がない時に扇子を利用する。その場合には、扇の扇面を開いて、その面の上に金子・金封などを置き、相手に渡す。

(十) 武士の世界では、扇子で人を叩くのは大変無礼で、叩かれる側にとっては大変屈辱的な行為であった。故にこういった行為は武士の間では行われなかった。扇子で頭を叩く行動が見られるのは明治時代に入ってからである。 

(十一) 舞の謡いの時には、扇をたたんだ状態して、扇面を先にして自分の膝頭や床をいて拍子を取るのに使った。

(十二)公家や女性は口元や顔を隠すために扇を使う。笑う時も扇子で口元や顔を隠す。

(十三)江戸時代、切腹する時に短刀の替わり

 用いたのが扇子である。扇子を腹に当てた瞬間に介錯人が首を斬り落とした。これを扇子腹(せんすばら・おうぎばら)と言った。

(十四)扇子の発祥は中国と言う説もあるが、安時代に日本で作られ、それが中国を経ヨーロッパに伝わったと考えられている。



時代劇の考証や剣術各流派によっては、多少違う場合もあるかもしれませんが、現在の出版図書や関係雑誌、または映画やドラマで得た知識で、江戸時代に於いて一般的と思われる所作をまとめてみました。あくまでも参考としてご覧下さい。 以後、不定期に加筆します。