歴史の四方山話

れきしのよもやまばなし

() Sundries Topics of  Japanese History


四方山話 其の二十 被差別民に堕ちた武士達


江戸時代には「公事方御定書」(くじがたおさだめがき)」により、町民でも心中(相対死)の生き残った側の人間や十五歳以下の泥棒、博打による身代(財産)の消滅をした者は非人の身分に堕とされていた。武士の中にもある理由をもって、非人に身を堕とした人々がいた。それを「乞胸」(ごうむね)と呼ぶ。

江戸初期に徳川幕府は、徳川三代で、外様大名から親藩の大名まで八十数家を改易にした。全国には主家を失った浪人があふれかえっていた。仕官や職を求めて江戸に全国の浪人が集まった。幕府からは、法度で浪人が一年間の江戸滞在で仕官が叶わなかった者は、江戸を去らねばならないと決められていた。職にあぶれて追い詰められた浪人達には、やむを得ず山賊・野伏(のぶせり)・強盗・追剥(おいはぎ)・辻斬りなどをする者もいた。この頃、浪人達の反乱で有名な「由比正雪の乱」が起きている。しかし、こういった浪人達とは違う道を辿った浪人達がいた。この浪人達は、人の多い江戸で大道芸などをして糊口をしのごうと考えた。論語・軍記物の講釈・軽業・柔術・お伽噺・雑芸などをしたりして米や日銭を稼いだ。他にも編み笠をかぶり半身裸で胸を叩きながら唄を歌ったり、乞食のようななりで金を乞うた浪人もいた。浪人の家族の場合には、女・子供・老人は芸が出来ないので物乞いをした。こうした乞胸(ごうむね)と呼ばれる辻芸人を始めたのが、長嶋礒右衛門(ながしまいそえもん)である。この礒右衛門の周りに同じように喰い詰めた芸の出来る浪人達が集まり、長嶋礒右衛門はその頭領となった。ところが乞胸が江戸に多くなると、非人頭の車善七は、乞胸は同じ芸や乞食で暮らす非人にとっては営業妨害であると、中町奉行所の石谷将監(いそがいしょうげん)に訴えた。礒右衛門と非人頭と奉行所の三者が出した結論は、

一、乞胸は辻芸の営業をする限りは「やぐら銭」を乞胸頭が芸人から徴収し、非人頭の車善七に支払う。

二、乞胸の身分は武士から町人に落とすことにする。これは乞胸が非人頭の支配下にある場合には乞胸も非人でなければならない。しかし、誇り高き武士がいきなり非人ではあまりのことなので、あえて町人の身分とした。乞胸達は町屋に住み暮らし、人別帖に記録され、これを人員の入れ替わり毎に町名主に提出した。幕府としては、乞胸の浪人達の動静の把握を行うため、穢多・非人の総元締め浅草弾左衛門の支配下におく事にした。このほうが浪人達(乞胸)の幕府への謀反防止と乞胸の支配ができるからだ。この乞胸達は、元は誇り高き武士なので、最初の頃は刀を差している者もいたが、後年乞胸は一切刀を差すことは許されなくなった。乞胸の辻芸の種類としては「綾取」「猿若」「辻放下」「講釋」「江戸万歳」「操り」「浄瑠璃」「物真似」「説教」「仕形能」「物讀」「辻勧進」以上のようなものが乞胸の専業芸と言われている。この長嶋礒右衛門は代々続き、幕末まで十代以上続いていたそうだ。江戸幕府は幕末までに大量の大名を改易にしたと伝えられている。江戸時代には、生きてゆくために、武士としての誇りや人間としての尊厳を捨てて、辻芸人として生き抜いた武士達がいたのである。


四方山話 其の十九 茶聖 千利休の切腹 その


 安土桃山時代に侘茶を大成した茶聖 千利休。蟄居先の堺から京都へ呼び戻されて、聚楽第にて切腹、一条戻橋にて首をさらされたとされている。しかしその切腹には謎が多く、切腹の本当の真相は今でもはっきりとはしていない。なので、歴史家や研究家・小説家が、利休切腹の真相の決定的な理由はこうであったと、いまでもその研究・議論が続いている。

現在の所、その切腹の理由としては、おおむね次のとおりのものが通説として考えられている。

一、茶人で僧でもある利休は堺の商人で大変な財力があった。大徳寺には禅僧として師匠について参禅もしていたので、盛んに寄付を行ってい

  た。感謝した大徳寺側は、その返礼として利休の木造を制作、この木造を山門の内部に安置した。これが石田三成などから、貴人が大徳寺

  に入る際には利休の足下をくぐる事になり、無礼極まりないとの事から切腹になったと言う説。

二、利休の侘び寂びの美意識の茶道と、秀吉の黄金の茶室を使った豪華絢爛の華美な茶道に対する考え方で二人が対立したためと言う説。

  利休は自分の美意識と茶の哲学・世界観に絶対の自信をもっていた。そういう意味で、利休と秀吉とは相入れる事がなかった。

三、秀吉の異常な女好きの性癖から、美女といえば片端から自分の側室にしていた。その秀吉が利休の娘の一人を側室に差し出せと言ったにも

  関わらず、利休が断ったため、という説。

四、秀吉の異父弟、豊臣秀長と利休は親子のように親しく、秀長は利休に対しては父のような、茶の湯の師匠として敬愛の情も持っていた。

  この秀長が利休の後ろ盾となっていたが故に、豊臣政権でも重要なポストにいることができた。ところがこの秀長が利休の切腹の数か月前

  に病死したため、その後ろ盾がなくなってしまった。そこで利休を快く思わない石田三成や他の重臣達によって、このチャンスを利用して

  政敵・利休を抹殺しようとして切腹させた説。

五、利休は堺の豪商であり、茶の湯の絶対的な権力者で、茶器や道具の売買で巨万の富を築いていた。利休の富と権力、それを畏れた秀吉が、

  利休抹殺を謀(はか)ったという説。

六、堺は海外貿易の港であり、堺の商人は莫大な富を築いていた。そこに秀吉が巨額の税金を課した。それに真っ向から反対し、秀吉に楯突い

  て秀吉の怒りを買った。その怒りによって切腹させられたと言う説。

七、茶室は狭い部屋の密室で、亭主と客とは密談ができる。密室である茶室で、反豊臣陣営の戦国大名と秀吉暗殺の密談をした。しかし、実行

  される前に暗殺の計画が秀吉側に漏れてしまった。利休は最後まで密談の相手 (黒幕に徳川家康とも言われている)の名を言わなかったがた

  めに、その暗殺を企てた犯人として切腹させられたと言う説。

このように、いろいろな説が取り沙汰されている。他にもいろいろと諸説があるが、代表的なものとなると上記の説が有力な説となっている。


四方山話 其の十八 茶聖 千利休の切腹 その


歴史と言うのは、新しい資料の発見、新しい学説・知見によって書き換えられて行くものである。今回、新たに、利休切腹の新説が出たので紹介してみよう。

結論から言うと「利休の切腹はなかった」と言う事である。その理由と言うのが、

一、利休が切腹をしたと云う事実を裏付ける一次資料は、実は皆無である事。

二、利休が切腹した翌年に、九州の名護屋城から秀吉が自分の母、大政所(おおまんどころ)に書状を書いている。今日も利休の点てた茶を飲んだ、

  体調もよく気分も良い、と書いている事。利休風の茶を喫したという意味にも取れるが、当時はまだ利休流のは流派としてはまだ完成し

  ていなかった。利休が点てた茶を飲んだと素直に理解した方が自然である。

三、当時の公家日記「時慶記」西洞院時慶、「晴豊記」勧修寺晴豊には、利休は、茶器の売買の取引で不正に大儲けした事がばれて逃げ出した

  (逐電)と書かれている。また伊達政宗の家臣、鈴木新兵衛の書状には、利休は今、行方不明で罪人の本人が見つからないので、代わりに大

  徳寺の木像が磔(はりつけ)になったので、前代未聞の出来事として大騒ぎになったと書かれている。木像の隣には、罪状を記した高札が掲げ

  られていたという。

四、当時、茶の湯の世界で、茶器の鑑定や値段を決めるのは利休であった。茶の湯の世界では絶対的な威と権力とカリスマを持っていた。茶

  器を売買をすることによって、莫大な金を儲けていたので世間の人々は利休の事を※「売僧」といっ揶揄していた。

  ※売僧(まいす=物売りをする悪徳僧の事)

五、秀吉は当時、九州の唐津の名護屋城にいたことが分かっている。利休の逃走・逐電の手引きをしたのが利休の高弟、細川三斎(忠興)と言わ

  れている。また忠興は自分の領国の豊前の国の三百石の領地を利休の息子道安に与えている。しかし実質上利休に与えられたものであると

  考える方が自然である。

以上の事柄から、利休は切腹などはしておらず、茶器の売買の不正で儲けた事が発覚して秀吉の怒りを買い、また世間からの激しいバッシングから逃れるために、九州の細川家領地に逃げ込んで隠れたという事である。切腹の話は、利休はこの世から去った(死んだ)ということを世の中に信じ込ませるために行ったカモフラージュ、またはプロパガンダだったのではないか。ともあれ、これをもって茶の湯の世界と社会から利休は抹殺され、利休は歴史の表舞台から消え去ったのである。利休はその人生の最終地で一人自分の茶の湯の世界を追求していた…のかもしれない。源義経・豊臣秀頼・明智光秀など難を逃れて生き残っていたのでは…と思わせる歴史上の人物は多いが、これもそのひとつである。


四方山話 其の十七 おあん物語


江戸時代、天保八年(1837年)に「おあん(おあむ)物語」と言う本が出版されている。これは、関ヶ原の戦い(1600年)の時、西軍の根城であった岐阜大垣城の篭城戦を体験した17歳の少女の話をまとめたものである。晩年におあんが話した思い出を聞書した人が記録し、後年それが本となって出版された。篭城戦の中で、大砲の爆裂・轟音・衝撃で気絶する女性の事や、隣で14歳の弟が鉄砲の弾に当たり死んでしまった事などが書かれている。さらに、城での女性の仕事のひとつに、敵の生首に化粧を施す事も記録されている。戦国時代は、武功の証明として、敵の生首を自分達の城に持ち帰っていた。雑兵では武功の評価が低いので、そんな首でも化粧を施し、お歯黒を付け、髪を整えて見栄えよくし、敵将の名札を付けて、少しでも大物の首であることをアピールしたのである。毎夜、何十という死臭漂う血生臭い首と、一緒に寝起きを共にしたと書かれている。人は追い詰められ、そのような環境に長くいると、恐怖も遺体に対する嫌悪感も麻痺してしまうのだろう。篭城戦の陥落間際の頃、敵方から矢文が飛んできて「山田去暦(おあんの父)は、家康公の手習いの師匠であったので、見逃してやる」と書かれてあった。おあんの家族、父・母・おあんと家来一人の4人で城を脱出する逃避行が始まる。大垣城の堀をたらいで渡り、道なき道の山の中を、敵の残党刈りに怯えながらの逃避行であった。途中、野道か山の中で、身重だったおあんの母が、急に産気づいて妹を産み落とした。その妹を家来が抱いて、長い逃避行の末に、やっと四国にたどり着き、土佐に移り住んだそうだ。おあんは、この逃避行が最も恐ろしかったと述懐している。おあんは、寛文年間(1661~1673年)頃に80余歳で亡くなったと伝わっている。一女性の記録ではあるが、戦国時代のおぞましい、身の毛もよだつ側面が記録されていて興味がつきない。 


四方山話 其の十六 筆小塚


筆小塚は、明治初期までの寺子屋教育で、師匠・先生のお世話になった子供たち、卒業して成人になった教え子たちが、先生・師匠の遺徳を偲び、顕彰しようと建てた石碑・墓のことである。昔の塚には筆の形をしたものがあったので、筆小塚と呼ばれる。全国各地に多数の石碑・墓が残っている。先日、往来物(鎌倉から江戸時代・明治初期にかけて作られた庶民の学問の教科書、寺子屋の教科書に使われた)の資料を読んでいたら、寺子屋の師匠と寺子(教え子達)の師弟関係について、こんなことが書かれていたので紹介してみたいと思う。

 江戸時代には、寺子屋は全国に五万ヶ所はあったと推定されている。コンビニや歯医者さんよりも多かったわけだ。寺子屋のお師匠・先生は、当時は地元地域で最も尊敬される職業だったそうである。地域によっては領主についで敬われる存在だったと言われる。地域で解決できない揉め事も師匠が出てゆけば治まったとか、師匠が死刑囚の教え子を懇願して死刑を免れさせ、その死刑囚が後に出家した話も残っている。「生みの親より教えの親」の言葉通りに、教え子が、親にも言えない事を師匠に相談したり、寺子屋卒業後も度々師匠を訪れて教えを受けたり、嫁いだ娘も実家に戻る時には、必ず師匠のところへ行って挨拶にいったり、家でのお祝いごとには必ず師匠を呼んで上座に座らせてともに祝ったそうだ。普通、寺子屋のお師匠さんでは裕福な暮らしはできなかった。あまりに貧乏なため、お嫁さんをもらうこともできなかった。家賃も滞る有様で、炊事の手伝いは寺子達が支援して、幕末~大正期を細々と生き抜いた師匠もいた。佐渡地方のある寺子屋では、師匠の食事は寺子の家族が持ち回りで世話をしていたそうだ。師匠は自宅へ寝に帰るだけで、村民の家庭を回って食事を済ませ、師匠が用事で出向けない時には、寺子が師匠宅へ届けたそうだ。個人教授式で、寺子の一人一人に合わせて教授し、その寺子の才能や能力を見出し、専門のプロフェッショナルを育てる教育であったようだ。

 日本人が日本人であった時代に、師匠と寺子は、生涯を通じて、濃密な愛情あふれる交流があったようだ。その感動的なエピソードはいろいろと今も伝わっている。寺子は師匠に尊敬と敬愛を、師匠は寺子に慈愛と全人的な教育をほどこした。当時は、寺子屋という学びの場所で、人間同士の暖かい学びの交流を続けていたのだった。その結実が、寺子達による昔から残る師匠の顕彰碑・墓の「筆小塚」なのだ。

この文章は、寺子屋と往来物の研究家、小泉吉永氏のテキスト「江戸の教育に学ぶ」から一部(5~12行目)を引用させていただきました。


四方山話 其の十五 薩摩武士の「ひえもんとり」


江戸時代、薩摩藩の武士の間では「ひえもんとり」という習わしがあったそうだ。「ひえもんとり」とは生臭物(なまぐさもの)を取る、と言う意味である。具体的に説明すると、甲冑に身を固めた武士が、東西に分かれて馬に乗り、実際の合戦のように行う。死罪人を一人づつ生きたまま一頭の裸馬に乗せて打放す。そこへ何十という騎馬武者が、刀や槍をもって、死に物狂いで逃げ回る死罪人に襲い掛かり、その死罪人の生肝(心臓)を奪い取るという合戦競技である。当然、狙われた死罪人の体は、槍や刀で滅茶苦茶に切り刻まれ、バラバラにされて、終わった時には人間としての原型を止めないほどになる。残酷極まりない競技だが、もともと薩摩武士の尚武のためとか、士気の昂揚が目的であった。しかしながら、一説によると、幕末を迎えるまでは、薩摩藩は極端な貧乏藩で、下級武士には、あまりに過酷な極貧生活を強いられるので、飢餓に苦しんだり、発狂する侍もあった。その下級武士たちが暴発・反乱を起こさないように、その手前で、ガス抜きの為に行われていたのが「ひえもんとり」ではないかと言われている。


四方山話 其の十四 信長の弟


織田信長には13歳下の弟がいた。名前は、織田長益(ちょうえき・ながます)である。彼は「信長公記」によれば、ただ一回しか出陣していない。天正10年の甲州攻めだけである。この人物は早めに政治・合戦の世界から抜け出し、早くから千利休の茶の湯の弟子となり、利休の高弟になった。本能寺の変の時には、信長の長男信忠を欺いて、二条御所から逃げ出している。京の町衆は織田の源五は人でなし、と言って馬鹿にした。利休滅後は一流の茶人の名声を活かして、豊臣秀吉の下に茶人として仕えていた。信長の次男信雄(のぶかつ)等は、秀吉の転封命令に従わなかったため、秀吉に改易に処せられた。長益にも同様の手が伸びたが、長益は出家して有楽斎となり、自分の茶の湯の流派で、武家茶道「有楽流」も起こした。また、秀吉に御伽衆に取り立てられる大出世を果たしている。また、姪に当たる淀殿の後見人にも当たっていた。その後、大坂の陣では、淀殿・秀頼を裏切り、家康側に寝返り、今で言うダブルスパイをしていた。この功績が認められ、大坂の陣のあと、自分の領土三万石は、家康より安堵(あんど)され、江戸にも屋敷が与えられていた。その屋敷周辺を有楽町と呼ばれて今に至っている。この彼の生き様は、昔からの諺で「芸は身を助ける」を地でいっているように思う。政治・経済・戦など、権力者が口を挟まれるのを最も嫌ったことから遠ざかり「芸」の道で権力者と渡り合い、生きた事が長命に繋がったのだと思う。この時代の織田長益の生きた様は、漫画「ひょうげもの」に生き生きと描かれている。 


四方山話 其の十三 坂本龍馬とキリンビール


キリンビールは言わずと知れた、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎が作った会社である。このビール会社の商標マークは、中国の伝説上の動物「麒麟」をモチーフにしている。「麒麟」は、中国では聖人がこの世に現れいでる前に現れると言う霊獣である。なぜ「麒麟」の絵柄が、ビールのラベルになったかと言うと、坂本龍馬がトーマス・グラバーを岩崎弥太郎に紹介したお陰で、この二人で日本で初めてのビール会社を作る事が出来たのだ。その時に、グラバーがビールのラベルに「麒麟」のマークを強く推したそうだ。この「麒麟」は顔が「龍」下半身が「馬」となっていて、これは坂本龍馬を表しているそうだ。グラバーは、坂本龍馬の名前を、友情の証として永久に残したかったのだそうだ。龍馬ファンやビール業界ではよく語られる逸話である。


四方山話 其の十二 明智光春と織田信長の首


明智左馬助光春(あけちさまのすけみつはる)(別名 明智秀満(あけち・ひでみつ)とも言う)は、光秀の家臣で、父は光秀の叔父明智光安。荒木村重の嫡男に嫁いでいた光秀の娘を、荒木一族が滅んで後に光秀の娘を自分の妻にしている。また明智家家臣として多数の武功をたてている。さて、後世まで信長の首と遺体は行方知れずということになっているが、信長の首に関しては「名将言行録」に以下のように書かれている。光春は本能寺の変の直後に信長の遺体を探していた。そこへ並河金右衛門と言う男が、信長の首と白綾の着物を持って光春に報告に来た。信長の首なので大手柄であった。金右衛門はすぐにでも斎藤利三か光秀に報告したいところだ。しかし光春はこう言って金右衛門を諭した。「信長公はかつて甲斐の国を遠征して勝頼の首を取り、その首に悪口罵詈雑言をされた。これには今の世の人々までもが、あの信長公ともあろうものが敵の首を切って罵ったと悪口を言っている。光秀公が今、信長の首を見たらば、積もり積もった根深い怨恨があるため、必ずや侮辱するであろう。そうなると後世になって人々から悪口を言われることになる」金右衛門はその言葉に怒ったが「お前の手柄は私が証人となって必ず褒美をとらせよう」と涙ながらに金右衛門に強く頼み説得したのである。金右衛門も感じ入って、そこまで言われたなら仕方がないと言って光春にすべてを任せることにしたのである。光春は西誉という僧に命じて信長の首を葬らせた。光秀はその白綾の切れ端を見て、信長の死を納得した、と「名将言行録」に書かれている。光秀の山﨑の合戦の敗走から、近江坂本城で明智光春が自刃して果てるまでの天晴れな死に様は、秀吉が「流石に稀なる侍や」「日向守(光秀)の侍を養いし心を織田殿に持たせたならば、日向守のような者もなかったろう」と感嘆したと言い伝えられている。光秀は部下の侍を大切にしたから光春のような立派な家来がいて、その主人の恩に報いようと死ぬ時まで光秀を裏切ることはなく、武士として立派な最後を示した。その心が信長公にあって光秀の心のように家来を大切にしたなら、こんな謀反者(明智光秀)は出なかったであろうに、と秀吉は言っているのである。

この記述は「名将言行録」自体が、学者の間では、歴史的資料としては、出典の論拠がないことをもって、根拠に乏しいとして黙殺されている。が、ひとつの可能性としてはなきしもあらず、かもしれない。


四方山話 其の十 西郷隆盛とフルベッキ群像写真


「宿んしは、こげんなお人じゃぁなかったこてぇ」この言葉は、時は明治31年12月8日、処は東京上野、夫の西郷隆盛の像の除幕式で、妻、糸子が発した言葉である。明治時代にも、庶民の間には、西郷隆盛の人気は絶大なるものがあった。もうこの頃には、西郷の本当の顔を知る者は、ほとんどいなくなっていた。なぜ、この頃になって、明治政府は、西郷隆盛の本当の顔を消し去ろうとしたのか?また、なぜ偽物の西郷隆盛の顔を作り、国民に偽の西郷像のイメージを植え付けるプロパガンダを行ったのか?その謎を解く鍵が、ある一枚の写真にある。それがフルベッキ群像写真である。46名もの勤皇の志士達が、一堂に会した写真である。幕末の裏になり表になりして活躍した歴史上の有名な志士たちが並んでいる。長い間、歴史の学者やアカデミズム(保守的学者達が集う学会・または国家の御用学者達)では、偽物と黙殺されてきた写真である。しかし、フェイク(作られた贋作・偽物)ではない。この写真と同じ場所とセットを使った幕末の写真が他に複数存在するからである。この写真には、坂本竜馬を始めとする幕末の志士達が写っている。何よりも驚くのは、本物の西郷隆盛と言われる人間が写っていることである。さらに驚愕すべき、写真の真に重大な事は、若き日の明治天皇が写っているからである。中央の牧師のフルベッキとその息子が中央にいて、その下で刀を肩に掛けて座っている中央の人物こそ「大室寅之祐」こと「明治天皇」なのである。この写真が、世に出ることを恐れた明治政府は、西郷隆盛の偽物の肖像写真と銅像をもって、こちらのほうが本当の西郷であると国民に信じさせたのである。そうすることで、ここに写る西郷隆盛は偽物で、よって明治天皇と呼ばれる人物も偽物である、という事を国民に印象づけようとしたのだ。なぜなら、実は孝明天皇の崩御後の践祚(せんそ=天皇の譲位)では、孝明天皇の皇子ではなく、大室寅之祐と入れ替わっているのだ。この驚愕の事実を国民が知ったら、皇室と社会と歴史がひっくり返ってしまうのだ!万世一系の天皇の系譜はどうなってしまうのだ!この大室寅之祐(明治天皇)が、天皇になるまでのブラックボックスのからくりは「幕末維新の暗号(祥伝社刊)」や「消された西郷の写真の謎(学研パブリッシング刊)」「天皇の暗号(学研パブリッシング刊)」「西郷の貌(祥伝社)」「明治天皇すり替え説の真相(近代史最大の謎にして最大の禁忌タブー)(学研パブリッシング刊)」などの本に詳しく述べられているので、ご一読されたい。件(くだん)の集合写真の顔の照合は、写真人物の別の写真との照合で同一人物の照合をしたり(耳の形の照合等)法人類学者の鑑定の照合を援用したりして、人物の照合をしたものである。ただ唯一の謎の人物が、この大室寅之祐なのである。当時のどの文献にも名がない謎の人物だ。この人物はそれらの本によると、真偽のほどは分からないが、一応は南朝系の天皇の末裔(?)という事になっている。(幕末までは北朝方の天皇が正式な系統となっていた)この集合写真は幕末維新を成し遂げるための、秘密結社の証明写真のようだ。明治時代から戦前まで巷間に流布していた、明治天皇の写真は、あの有名な西郷隆盛の肖像画を描いた、イタリア人のキヨソーネによるもので、その肖像画を写真に撮って、明治天皇の御真影として流布したものだ。顔の整った端正でふくよかな顔立ちで、下の明治天皇の御真影とは似ても似つかないものであった。また、明治天皇は写真嫌いで有名だった。東京へ遷都したのも、京都で孝明天皇や皇子の顔を知っている人が多い京都を避ける為に行ったとも一説には言われている。この集合写真、フルベッキのただの門下生達を撮影しただけの写真(偽物)として片付けるには、歴史上の人物がこれほど写っていることの事実を覆すには論拠に乏しいと思う。

謎が謎を呼ぶ奇妙な幕末の一枚の古写真。皆さんはどうお考えになるでしょうか? 


一般に流布した、明治天皇の肖像写真。西郷隆盛の肖像画を描いたイタリア人キヨソーネが描いたものを写真撮影。

明治天皇の明治六年の御真影

明治天皇の明治六年の御真影と(40)大室寅之祐こと、10代の明治天皇。顔立ちと耳の形に相似形が認められる。

(43)坂本竜馬と見られる人物 

(13) 西郷隆盛とみられる人物

ある外国人の西郷の面会記録の「西郷は長身で逞しくヘラクレスのような体躯をしていた」という証言と一致する。  




四方山話 其の十 明智光秀の子孫と本能寺の変


光秀の子孫は、逆賊の汚名を着せられ、明治政府に正式に「明智」という苗字の変更を受理されるまで「明田」と言う苗字で暮らしてきた。各地に逃れた明智一族は、明智一族とは知られないように世間に隠れて生きてきた。その生き残った光秀の側室の息子「於寉丸(おづるまる)」の末裔と言う明智憲三郎氏が、昨年末、生涯を費やして著した「本能寺の変431年目の真実」という本を上梓された。戦国時代の最大の謎と言われる「本能寺の変」その謎を解き明かした本である。謎が謎を呼ぶ本能寺の変、その謎のひとつひとつをジグソーパズルのピースを嵌めこむようにして解き明かした本である。読んでゆくと、光秀の信長暗殺は、ある大きな目的のために、用意周到に綿密に計画を練った上での決行であったことが判明する。単に怨恨で発作的に行ったものではなかったのである。最後には衝撃の結末が語られるのだが、それは敢えてここでは触れません。この本は単なるフィクション・推理小説ではなく、歴史の事実と一次資料の古文書を援用して語られる迫真のノンフィクションです。非常に面白い本なのでご一読をお薦めします。「本能寺の変431年目の真実」文芸社文庫(345ページ)定価720+税です。ぜひご一読下さい。


四方山話 其の九 信長の一銭斬り


信長は、足利氏を追放し、近畿二十四の国を平定した後に、新しい法度(はっと掟・法律)を制定した。その中に「一銭斬り」という非常に厳しい掟があった。それは、一銭でも盗んだ者は死罪に処するというものであった。そのお陰で、盗賊がいなくなり、旅人や商人でも道端で昼寝していても、金を盗む人間がいなくなったということである。当時の人は、これを珍事件と呼んだそうだ。戦国時代にあって、そのようなことは有り得ないことだったからだ。一般庶民の生活・商売にとっては治安が一番重要であることを信長は見抜いていたのである。日本は現在でも世界に比べて治安がよい。落とした財布も手元に戻ってくるほどで、日本に来る外国人もびっくりするほどだ。今の日本人の道徳の高さも、案外、信長のこの出来事が淵源かもしれない。


四方山話 其の八 弘法大師空海の手紙と関白秀次


書道の世界では、中国の書聖、王羲之の「蘭亭序」と、日本の書聖、空海の「風信帖」が行書の手本として使われる。京都の教王護国寺(東寺)で空海の「風信帖」のレプリカを手に入れた。現物を忠実に写したレプリカだった。ところがよく見てみると、妙なことが「風信帖」の末尾にメモ書きされているのに気づいた。原文をそのまま書くと「當關白殿下秀次公以與山上人為御所望付消息四枚之内一枚進上畢 天正廿壬辰年四月九日」と有り、読み下すと「当関白殿下秀次公が輿山(よざん)上人を以てご所望の為、手紙四枚の内一枚を進上し畢(おわんぬ)。天正二十年壬辰年(みずのえたつどし)四月九日」とある。この関白秀次公とは、豊臣秀吉の甥御の関白豊臣秀次のことだった。なんと、この国宝「風信帖」は秀次に一通奪われて行方不明になっていたのである。さて、この秀次だが、後に悲惨な運命を辿る事になる。高野山に幽閉されて一週間後、秀吉に突然に従者・家来と共に切腹を命ぜられて絶命している。それだけではなく、今度は秀次の一族郎党三十九人が、捕らえられ、京都の市中を牛車で引き回しの上、三条河原で、腐って朽ち果てた秀次の首に向かって座らされて首を切られていった。まだ六歳で側室の嫡男仙千代丸までも斬首された。赤子や幼児は大人しくせず走り回るので、槍で串刺しにして殺した。また、秀次の側室として迎えられた、東国一の美女、最上義光の息女駒姫も京都に到着して数日でこの事件に巻き込まれ、血の繋がりのない女性であるにも関わらず、秀次の待妾であったが故に処刑された。まだ十六歳の若さであった。一族を約半日かけて処刑して三条河原の川の水が真っ赤に鮮血で染まったと言われる。秀吉は、もう後継ができないと諦めていたところ、淀君が秀頼を生んだが為に、秀次が邪魔になった。関白は秀頼に継がす事にし、邪魔になった秀次にあらぬ謀反の疑いをかけて、一族郎党を皆殺しにしたのである。一族の遺体は刑場の場所に大穴を掘ってそこに秀次の首と一緒に投げ込まれた。その後に畜生塚という石碑が建てられ、秀吉は死んでまでも秀次に辱めを与えた。京都の秀次の屋敷「聚楽第」も跡形もなく破壊され、秀次が生きた痕跡を残らず消滅させたのである。空海の手紙を辿って調べてゆくと、このような結末となった。その豊臣秀吉も「驕れる者も久しからず」一族郎党皆、大坂の陣の後、十年間に及ぶ残党狩りで、徳川家康に滅ぼされてしまった。その後のこの秀次とその一族だが、後に畜生塚を掘り返され、小さいながらも改めて墓が与えられて、今は京都の瑞泉寺に葬られ、代々の住職がその菩提を弔っている。ちなみに、空海の手紙、国宝「風信帖」は5通あり一通は盗難に遭い、もう一通が豊臣秀次により不明となっている。現在は三通のみ現存している。

 

※興山上人(よざんしょうにん)=木喰応其(もくじきおうご)若い頃の秀吉と親しい間柄であったとの説あり。

※慈舟山瑞泉寺→秀次一族の虐殺から十数年後、鴨川の脇の高瀬川の開削をしていた豪商角倉了以(すみのくらりょうい)がこの塚に行き当たった。

 了以はそこに犠牲者の菩提を弔うために、一宇の堂を建立した、それが瑞泉寺である。瑞泉寺は三条大橋のたもとの高瀬川と鴨川の間にあ

 る。近くを通られた方は、犠牲者の冥福のために、ぜひ一度参詣していただきたいものである。


四方山話 其の七 伊藤博文と孝明天皇


明治42(1909)伊藤博文を暗殺したのは韓国人の安重根(アン・ジュングン)である。日本の裁判所で、伊藤博文を暗殺した理由として「伊藤博文罪状十五ヶ条」を述べた。その十四ヶ条に「今ヲ去ル四十四年前、現日本皇帝ノお父上ニ当タラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国国民ガ知ッテオリマス」要するに伊藤博文が明治天皇の父、孝明天皇を弑逆(しぎゃく・しいぎゃく)した張本人であると裁判で告発したのである。

別の話になるが、時代小説家の南條範夫氏の医者だった曽祖父が書いた日記(原本は関東大震災で消滅)の写しにある日の出来事が記録されている。幕末のある日、風雨の強い真夜中に、どんどんと扉を叩く音がするので、出てみると高貴で立派な駕籠と従者が数人いて、とにかく早く駕籠に乗って来てくれと言われた。急いで駕籠に乗り、どこをどう走ったのか真っ暗闇の中を走って、到着して直ぐに奥の御殿に行くと、畳を三枚重ねた上に布団をかぶった高貴な方が横になっていた。従者が布団をめくり上げて「なんとかなりませぬか?」と言われ診てみると、脇差ほどの短刀が腹に深々と突き刺ささり、出血多量でもう事切れていた。首を横に振り駄目ですと言った後、また駕籠に乗せられて帰宅したそうだ。南條氏は、孝明天皇暗殺に関わることだったのではと言っている。

また、御所の医者だった人の孝明天皇の崩御までの記録(日記)を見ると、死ぬ数週間前に伝染病のような症状が出た。突然発症されて高熱と下痢と嘔吐を繰り返したので、医方が薬を処方した。数週間後回復したのだが、突然に崩御なされたと書かれている。もうほとんど治りかけていたところだったそうだ。崩御の知らせを聞いて御所に駆けつけたがすでに遅く、御舟入(柩に入る事)になっていたそうだ。

下衆(げす)の勘(かん)ぐりではあるが、毒殺に失敗した後に、一気に刃をもって弑逆したのかも知れない。これは、歴史の事実では無いと思うが、倒幕と明治維新は、謀略と暗殺で成し遂げられたのだと言うことは間違いないだろう。


四方山話 其の六 宮本武蔵と吉岡一門


宮本武蔵は、京都で吉岡一門の頭目だった吉岡清十郎を蓮台野で切り殺し、その弟伝七郎を三十三間堂で破り、さらに一乗寺下り松においては吉岡一門数十人を一人で相手にして勝利を収めたと言われている。しかし、吉岡一門の資料である「吉岡伝」には、吉岡と武蔵の試合は京都所司代の屋敷で行われて、しかも勝負は「相打ち」だったと書かれている。もっと驚くのは、武蔵に敗れて死んだはずの伝七郎や、剃髪したはずの清十郎が、その後の「大阪冬の陣」に出陣したと記述されていることである。この冬の陣の後、吉岡兄弟の従兄弟の清次郎が、宮中で抜刀騒ぎを起こして逆に斬り殺されるという事件が起こった。その一件から、吉岡一門は剣術道場を廃業し、染物屋に生業(なりわい=職業)を変えたという。真偽のほどは判らないが、ひとつだけ事実を述べるとするならば、吉岡一門は今でも京都で染物屋を営んでいる。そこの当主は、時折地元TVにも出演しているが、京都では有名な染色家である。


四方山話 其の五 豊臣秀吉の指


前田利家始めとする武将たちが、深夜、京都の聚楽第(じゅらくてい)に集まって密談を交わしていた。その時に秀吉の指の話題が出た。実は秀吉には右の指が6本あり、親指が2本あった。誰かがその指の由来を聞くと「生まれつき6本あり、若い時に切れば良かったのだが、敢えてそれをしなかった、だから今日まで指が6本残ったのだ」と言ったと前田利家の「国祖遺言」に書かれている。また織田信長も秀吉のことを「六つ目が・・」と渾名で呼んでいたと記録に残っている。この多指症は世界中によくみられる症状で、多指症の有名人には、毛沢東夫人江青、小説家のサリンジャー、イギリスのヘンリー8世王妃などが知られている。


四方山話 其の四 戦国時代の鉄砲の火薬


戦国時代は鉄砲の時代でもあった。鉄砲の火薬は、おおよそ硝石・硫黄・木炭で作られる。戦国時代は、硝石や、より爆発力のあるヨーロッパの進んだ火薬は輸入に頼らざるを得なかった。そこで、当時の戦国大名は、ポルトガルなどと交易し、火薬の樽1個につき、日本人奴隷50人と交換して手に入れていたそうだ。当時の吉利支丹伴天連達(宣教師達)が、長崎や平戸で日本人数百人を男女によらず黒船へ買取り、足に鎖をつけて船底へ押し込めて、ポルトガルやシャム(タイ)やカンボジアへ売った、と「九州御動座記」やルイス・フロイス「日本史」などに記録されている。ポルトガル王のジョアン三世は「ジパングは火薬1樽と交換に、50人の奴隷を差し出すのだから、神の御名において領有することが出来たなら、献金額も増すことができるでしょう」とローマ法王に語ったという記述がある。また、遣欧使節団がポルトガル・スペインなどに赴いた時、日本人の奴隷があまりに多いので驚いたとの記述も残っている。同じ日本人を見て奴隷の女性が、こちらを哀願するような顔をして見るのを見て、耐えられなかったとも語っている。この奴隷たちは次々に転売もされて各國へ売られていったという。この貿易の為の奴隷だが、NHKの大河ドラマ「風林火山」で武田信玄が攻め落とした城の人間をことごとく人買いの市場に売りに出したエピソードが語られていた。このような人達や当時の賤民達が捕らえられて奴隷貿易に利用されていたのだと思う。ちなみに、スペインには遣欧使節団の末裔とも言われる、苗字が「ハポン(日本)」と呼ばれる、日本人の血をひく一族が今でも沢山いる。しかし、これは奴隷の人たちの末裔とも言えるかも知れない。戦国時代の歴史の裏には、このような残虐で非道なことが行われていたとは驚きである。ちなみに豊臣秀吉は天下統一をはかった後に「伴天連追放令」を出している。これは同胞日本人を奴隷にして売買している宣教師達への反発があったと言われている。


四方山話 其の三 大阪千日前


明治維新まで、大坂千日前は何百年かに渡り、長い間刑場であった。ここは、かって磔(はりつけ)台、さらし(首)台、獄門台、焼き場があり、墓場は千日墓地と呼ばれていた。数百年の間に、数十万人とも数百万人とも言われる罪人が処刑された。明治以降、刑場が廃止され、この土地の墓場を阿倍野に移した。大阪府は「灰処理代」という補助金を出してまで、土地を売却しようとしたが、ほとんど売れなかった。買った人間は一族郎党から絶縁されたと言う。明治45年にこのあたりの広大な地域が「ミナミの大火」によって消失した。その焼け跡地に、阪堺鉄道(今の南海電鉄)が難波駅を開業した。これで一気に人が増えた。この会社の社長が、この土地に一大娯楽センター「楽天地」を建設し、大坂市内観光の名所となった。ここには、大劇場や芝居・映画館・メリーゴーラウンド・水族館まであったという。これ以後発展を続け、大阪歌舞伎座や松竹少女歌劇団などができて、今日の大阪ミナミの発展につながった。ただ、1972年に千日前デパートで大火災があり118名もの犠牲者が出て、刑場の祟りか!?と一部で騒がれた事があった。歌舞伎座の建物の跡に千日前デパートができ、その火災後の跡地になんばプランタンができ、今はビッグカメラが建っている。その昔、この辺りを掘ってビルを建てようとすると、夥しい人骨が出てきたそうだ。今は、大阪一の繁華街だが、昔を辿ると思いもかけない歴史を発見するものである。


四方山話 其の二 フランシスコ・ザビエル


日本に初めて正式なローマカトリックのキリスト教を伝えたのは、フランシスコ・ザビエルである。戦国時代の1549年に来日して2年間布教した。その布教時にザビエルは、日本人からよくこんな質問をされたそうだ。曰く「そんな有難い救いの話(福音)が聞けずに死んでいった父母兄弟・先祖は救われないのか?今は地獄にいるのか?」「キリストが生まれた以前に生きて死んだ人はキリストを知らない。その人達に果たして救いはあるのか?」「洗礼を受けた人間だけしか救わないとは、なんと無慈悲で無能な神なのか?」「万能の神が、なぜこの世に悪というものをお作りになったのか?」などキリスト教の核心を突く質問や疑問を投げかけたと言う。ザビエルは書簡で「日本人は文化水準が高く、よほどの宣教師でないと日本での布教は勤まらない」「もうほとほと精根尽き果てた。自分の限界を試された」と本音を伝えている。支那(中国)でも朝鮮でもインドシナでもこのような質問は聞いたことがなかったそうだ。キリスト教は個人と神の関係で成り立っている。個人だけの救いよりも親兄弟、親族、先祖、周りの集団など、皆と一緒に救われたいと思う日本人のメンタリティがそのような質問をさせるのだろう。日本人は古代の昔から、神道・仏教・儒教・道教・修験道・景教(古代中国に伝わったキリスト教の一派)など様々な宗教や思想に日常的に触れてきた。だから物事を論理的に多角的に思考することが出来るのであろう。日本人は当時から頭脳明晰だったのだなと感心した次第だ。ところで、昔からヨーロッパ諸国は自国の植民地にするために、狙った国に先ず宣教師を派遣する。信者を作りシンパを養成し、権力者に近寄る。次に貿易のために商人を送り込む。問題が起これば、それを理由に軍隊を送り込み、最終的にはその国を武力で乗っ取り植民地にする。要するにキリスト教の布教と植民地支配はセットになっているということである。豊臣秀吉や徳川家康はそれを見抜いていたと考えられる。二人共天下統一を果たしたあとは、吉利支丹伴天連(きりしたんばてれん)を徹底的に弾圧して禁教としている。

ところで、このフランシスコ・ザビエルだが、その後、支那(中国)の広東省に渡り、病気を発症して現地で1552年に亡くなっている。1622年ローマ法王グレゴリウス15世によって聖人に列せられてから一度埋められた墓を掘り起こした。その時には生きていた時のような姿のままだったそうだ。一般拝観がされた時、参観者の婦人が二本の指を噛みちぎって逃走した。その後、その指は行方不明となった。1614年にイエズス会の総長の命令により右腕の下部はローマ・ジェズ教会へ(右腕を切断した時に、死後50年も経過しているにも関わらず、鮮血がほとばしりでたと記録に残っている。奇跡と言われた)送られた。その後は、右腕の上部はマカオへ、耳・毛はリスボンに歯はポルトに、胸骨の一部は東京に分散して保存されている。ちなみに噛みちぎられた指は件(くだん)の婦人が死亡したあとに発見されている。遺骸は今も腐らずに原型を保ったままボン・ジェス教会に安置され、10年に一度開帳を行っている。 

 

追記:フランシスコ・ザビエルの世界的に有名な肖像画は、大阪茨木市の隠れキリシタンの旧家で1919年に発見されたものである。ザビエルの兄の子孫ルイス・フォンテスは日本に来て布教し、日本に帰化して泉類治と名乗って布教をした。キリスト教徒でなくても結婚式を挙げられることを普及させた人として知られる。


四方山話 其の一  岩崎弥太郎の日記


岩崎弥太郎は、言わずと知れた三菱財閥の創業者である。もと海援隊の勘定方で坂本龍馬とは生まれ故郷の土佐の幼なじみである。さて、この岩崎弥太郎は日記を残している。「公用日記」と「崎陽日記」の2つである。その日記には、共に欠落している部分がある。それは海援隊の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎の両名が、京都近江屋で殺害された11月15日の前後部分である。今日に至っても、三菱と創業者一族岩崎家はこの部分を一切公表しようとはしない。ここに何が書かれているのか大変に興味深いものがある。この重要な部分を公表しないと言う事は、何か重大なことか、相当ヤバイ事が書かれているのではないか。なので、これを公表しないことによって、一部で龍馬暗殺に関わっていたのではないか?とか、その暗殺の黒幕ではないか?という声が後を絶たない。三菱財閥と言えば、今やコングロマリットな巨大な複合企業体となっている。鉛筆から牧場・ビール・造船・海運・ジェット機・ロケット・人工衛星までを造っている。キリンビール・小岩井牧場・ニコン・日本郵船なども三菱財閥の企業である。幕末・維新時、岩崎弥太郎は、後藤象二郎と結託して、海援隊のいろは丸の賠償金七万両の横領、大坂の土佐藩邸の払い下げ、藩船の払い下げ、明治政府と結託して、江戸城周辺の土地の買収などを行った。また、維新の前に大量の藩札(藩の借金)を安く買い集め、維新後、明治政府がこの藩札を藩に代わって借金を支払う事になった時、莫大な利益をあげている。明治政府からのいち早い情報でこの利益をあげたのである。今で言うインサイダー取引である。伝え聞くところによると、岩崎は川原で膨大な証文や契約書などの書類を何日にも渡って燃やし続けていたとの話も伝わっている。いずれにせよ、龍馬ファンや歴史ファンにとって、この日記の情報公開が待たれる。早く公開してほしいものだ。