閂差し(かんぬきざし)落とし差し殿中差し下がり

手練(てだれ)の腕の立つ侍、居合抜きを得意とする侍などは、「閂差し」をした。刀身を平行に差す差し方である。これは居合の「抜き即斬」の抜き打ちの抜刀に適している。また、部屋や床上で座るときに刀の鞘(さや)の鐺(こじり)が床に当たらないようにするためでもある。時代劇でもこの差し方をする人は少ないが、剣術や侍のことがよくわかる人は閂差しで演じている。現代の居合道や抜刀道には、今もこの差し方が残っている。しかし、平和な江戸時代に入ると「落とし差し」という斜め上に柄頭がくる差し方が主流になっている。逆に閂差しだと、抜刀の準備と見られて喧嘩になる場合もあったようだ。「殿中差し」は、城中へ入る時は、大刀を玄関で預け、脇差のみで殿中に入る。その時に、殿中で抜き打ち、抜刀ができないように、脇差を前方に出し、水平に差しておく。これで、横から見れば、抜刀が一目瞭然にわかるので、殿中での抜刀ができない。そのように見せるためにした差し方である。※「鐺(こじり)下がり」と言う差し方は「落とし差し」と同じ意味である。


刀身の樋(ひ)の役割

日本刀の刀身には、樋(ひ)と言う溝が彫られている。これは一般的には人を斬った血をためるためにある、と考える人が多いがこれは間違いである。本当の理由は、刀身を軽くするために溝を彫っているのである。また、居合道では刀身の風切り音が大きく響くが、これも樋の溝で起きる音である。


刀の受け渡し

は左手で鞘を握り、親指で鍔を掛け、下緒と共に鞘尻近くを右手で掴む、刃(やいば)は自分に向けて、両手で捧げ持ち、相手に渡す。受け取り側は、そのまま両手で受け取り、今度は受け取り側が刀剣を180度半回転させ、持ち替える。その時も同様に、柄が左側、鞘が右側になる。勿論刃(やいば)は自分の方に向ける。

また、位の高い武士が、下の武士に褒美や褒賞として、刀剣を下げ渡す時は、片手でやや高いところから下げ渡す。受ける方は両手で恭しく捧げ持って受け取った。


刀礼の仕方

屋外や床のない場所、または屋内であっても立礼で済ます場合。柄が左側、鞘が右側で下緒と共に掴み、左側は鞘を掴みながら親は鍔に掛ける。刃は自分に向ける。両手で刀剣を頭上に掲げ、一礼した後に帯刀する。ただし、剣術流派によっては、やり方が違う場合もある。刀礼には座礼と立礼の二つがある。


下緒の扱い方

下げ緒の扱い方としては、以下の扱い方がある。

下緒は左の刀の後ろへ回し、前の袴の帯に結びつける。右に付けるか、左に付けるかは、流派によって異なる。この場合には、結びめは引っ張れば一度で解けるような結び方をする。また、刀の鞘にからませて後ろへだらりと垂らす流派もる。刀の下げ緒を結ぶのは、大刀が抜け落ちないように、敵に取られないようにするためでもある。また、下緒の取り扱いは、流派によって様々な形がある。

 

下緒の利法十六

一、 襷掛け(たすきがけ)に利用する。(本来大事な下緒を襷掛けにしたない侍は、予め襷掛け用の紐を別に用意してた)

二、血止めに使う。

三、敵を縛り上げる。(士分の侍は、人を縛ることを許されなかった。え縛るのは町方同心だった) 

四、小高い塀に登るために使う。塀を登るに、刀の鍔や柄頭に足をけて上り、下から刀を引っ張り寄せる為に利用する。

五、刀を収納したり刀架に刀を掛ける時などは、下緒を鞘に結びつける、浪人結び(侍結び)などを施して納める。結びをするのは、武では女性の仕事であった。

六、骨折した場合には、添え木と骨折部とを合わせて縛るために下緒用いた。

七、江戸時代の大刀の下緒は、自分の身長と同じ長さのものを用た。

八、柄巻の紐と下緒の紐の色は同じ色を用いた。柄巻の紐が黒なら、緒の色も黒とした。

九、身分の高い武士は、自分の下げ緒に名前を入れている者もいた。

十、下緒の片方を鐺(こじり)近くに結べば、ショルダーベルトの代わりになり、刀を肩に担ぐ事がでる。

十一、下緒を予め外しておいて、槍や薙刀・

鎖鎌などを絡め取るのに使う。 

十二、室内での正座の時に、右膝の下に下緒

を挟み込み、後ろや横から刀を奪われないようにする抜刀できる時間を稼ぐができる。

十三、大小の刀を下緒で結びつける。就寝時

など下緒を枕元、あるいは体の下などに挟み込む。これで就寝時には盗み取られる恐れがななる。

十四、腰の帯を敵に切られたり、帯がない時

には、下緒を帯代わりに使うことができる。

十五、棒または刀の鞘などに下緒で刀を括り付けて長い刀を作る。戦国時代の武器の長巻のようにして使う。

十六、忍者の秘術書「万川集海」の巻第十三

に「下緒利法七術の事」の記述があり、忍者の下緒の扱い方が示されている。


血振りの所作

一、血振りは、人を斬った後に、刀に付いた血や脂を振るい落とす所作の事を言う。

二、居合道・抜刀道では技の演武の後・巻藁や据え物を斬り終えた後に、必ずこの所作を行う。剣道にはこの所作はない。

三、人の血や脂が付いた刀剣を、そのまま鞘に入れると鞘の中が血と脂で汚れ固まる。また血は塩味もあり、刀にとっては錆の原因となり大敵である。それを防ぐ為に、この血ぶりの所作を行う。

四、懐紙を使って、丁寧に拭き取ってから刀を鞘に納めるという方法もある。当時はこちらの方が一般的であった。

五、各流派には、縦血振り・横血振り・回転血振り・柄打ち血振り・自分の袴で拭う血振りと様々な血振りの型・所作がある。

六、血振りには他にも以下のような意味合いがあったようだ。(諸説ある)

・斬り倒した相手に、成仏を願うため。

・邪気や魔を払うため。

・その場を清めるため。等々。


時代劇の考証や剣術各流派によっては、多少違う場合もあるかもしれませんが、現在の出版図書や関係雑誌、または映画やドラマで得た知識で、江戸時代に於いて、一般的と考えられているものを掲載しました。


侍の二本差

日本刀は、平安中期から鎌倉時代にかけての武士の刀の装備は、「太刀(大刀)」を佩(は)いて腰に吊り下げていた。刃(は・やいば)は下を向いていた。「腰刀(小刀)」は帯に差し、用途は護身用と敵の首を切り落とすためであった。この室町中期から、兵の武装用として刃を上向きにした打刀(うちがたな)を差すようになり、これを「本差(ほんざし)」と呼び、予備としての短刀を「差副(さしぞえ)」と呼んだ。戦国時代にこの「差副」が「脇差」と呼ばれるようになり、この時代に大刀(太刀)と小刀(脇差)を同時に帯に差す形式が定着する。江戸時代の武士は、外出するときには、必ず二本差でなければならないと決められていた。


刀の差し方

まず脇差から、帯の一枚目に差し入れる。大刀は二枚目の帯に差し入れる。横から見ると、✖印のように大刀と脇差を交差させる。これで大刀と脇差が、帯の中でしっかりと締まり固定される。また、鞘同士が直接触れることがないので、鞘が傷つくことはない。鞘は栗形から拳(こぶし)一つ分を帯から離すくらいの位置で固定する。大刀は鍔の部分が臍(へそ)前、または柄頭が臍前になるようにする。抜刀は臍前(へそまえ)から始め、また臍前で納刀を終える。両刀を差し終えたら、大刀の下緒は、袴(はかま)の帯に結びつける。一回の所作で、結びが解けるように結ぶ。脇差の下緒は下へだらりと垂らす。また、大刀が抜刀しやすいように、いわゆる鞘道(さやみち)をつけておくことも肝要である。鞘を前後左右上下に動かして、抜刀時に鞘引きがしやすいようにする。あらゆる角度に抜刀ができるようにしておくことが大切である。両刀を腰に帯びている時は、抜刀がしにくい。抜刀する時は、大刀を鞘ごと前面に送り出して柄を握り抜刀する方法がひとつ。もうひとつは、右手を柄の下から送り込んで柄を握り抜刀する方法がある。状況に応じて、自分のやりやすい抜刀をすればよい。

戦闘時の刀の鞘の扱い方

戦闘時の乱戦において、刀の鞘は、水平にしたままだと、敵に掴まれやすいし、竹林や林、狭い部屋などでは、人や障害物に当たってしまい、戦闘の妨げになる。そこで、抜刀の後は縦に近い形で鞘を固定するのが良い。この場合には、左太股の後ろにあてがうと、邪魔にならず、動きやすいちょうど良い形に収まる。


左利きの侍の刀の差し方

江戸時代に於いては、侍が刀を差すのは「左」と決まっていた。利きの侍が刀を右に差すことはなかった。左利きの侍は幼少の頃から、左利きを右利きに強制的に矯正させられていた。


武士が刀を外す場合

武士は常に刀と不可分の生活をしていた。江戸時代の平和な時代にあっても、常に刀を自分から離さず、常に自分の身を守れるようにしていた。家族と食事をしていても、左横に刃を外にして置き、いつでも速やかに抜刀できるようにしていた。このような武士が、日常の生活に於いて、刀を帯から外す場合には以下のような合である。 

一、風呂に入浴する時。

二、茶会席に呼ばれた時には、刀を「待合」

の場所で、大刀は刀掛けにて、脇差は刀掛けの下などに立て掛けておくのが作法となっる。

三、吉原などの遊郭などで遊ぶ時も大小を預

けることになっていた。上方の遊里では脇差のみ許可される場合があった。

四、就寝の時は「枕刀」と言って、刀を布団

の左側に置いて、左を掴んで、右手で柄を握り、直ぐに抜刀できるようにして就寝していた。刀掛け(刀架)には一み掛けておき、さらに抜刀やすいうに柄頭は右側に向ていた。寒い冬は、枕元の頭上に置いた。武士は夜間の不意の襲撃にも備えいた。

五、夜中の厠(かわや=トイレ)の時は、小刀(脇差)を帯びて用を足していた。侍の自宅の厠では刀掛けがあり、そこへ大刀も脇差も掛けて入る。不浄の厠へ入るのに刀の持ち込みが御法度という処もある。

六、城に登城する時には、入口玄関で大刀を

預けて脇差のみで城入った。

七、相手の位が上の武士、または同輩の場合

には、太刀は自分の置き、刃は自分に向けて、わざわざ抜刀出来ないようにして刀を置いた。敵意や害意の無いことを示すのが礼儀作法あった

八、武士の自宅などを訪問する際には、玄関

で左手で太刀を抜き、家の雇(やいざむらい)太刀を預ける。雇侍は袱紗(ふくさ)で、漆塗りの高価な太刀を傷つけ汚さないよう受け取り預かった。雇は、を恭しく持ちながら人の訪問客の左側後ろにき、の際に柄頭を問客の左手側にるように置いた。刃は客とは反対側をにし雇い侍がいない家では、その家の妻・娘が袱紗あるいは着物の袖で、訪問客の刀を押し抱いて預かった。

九、切腹や重要な上意を伝えに来た上使は、

家に入って、上意を伝達し、家を出るまでは刀を差したままであった。

十、一般の武家を訪れた場合には、その家よ

りも家格も位も上の武士であれば、大刀を帯から外して、右手に持ち替えて家の中に入る事もあった。


道中脇差

脇差は、町人でも帯刀が許された者は、脇差を差すことができた。また、それ以外では旅に出る時には、町人でも「道中脇差」を護身用として、許可を得て差すことができた。


後鞘(ひきはだ)

一、刀の鞘に被せる皮の事。

二、細長い形の皮の袋。

三、道中・駕籠に乗る時・乗馬の時などに、刀の鞘に傷が付くのを防ぐために付けた。


刀を抜刀せずに相手を攻撃する技

日本刀には、刀から刀身を抜かないで敵を攻撃できる技がある。代表的な技を紹介すると以下の通りのものがある。

 

一、「柄打ち」は相手の刀を持った手を自分の刀の柄で打つ技。

二、「顔面打ち」は柄頭で相手の顔面の急所(人中=鼻の下)や顎・喉・眼球を突く業。

三、「鍔打ち」は左手で鞘を掴み親指で鍔を引っ掛けて、鍔で相手の顔面を討つ技。

四、「当身(あてみ)」その一、左手で親指は鍔にかけながら握り、柄頭で相手の水月(すいげつ=みぞおち)を突く技。

五、「当身(あてみ)」その二、片手あるいは両手で刀を掴み、柄頭と鞘の鐺(こじり)を利用して、前後・左右の敵を打つ技

 

刀の刀身を抜かずに、他にも敵に打撃や突きを加える技は流派によりいろいろとある。


刀身の役割

刀の刀身には、「殺・制・防」と言う役割がある。刀身の先端から1/3は「殺」攻撃専門に突いたり切ったりする役割をする。刀身の中央1/3は「制」相手の攻撃の受け流しや、しのぎの部分で受けをする役割を持つ。鍔元の1/3は「防」相手の強い攻撃、重い攻撃(鍔迫り合い等)に対して使う。刀身の各部分には各々の役割・使い方がある。また、日本刀は鋭く湾曲しているので、相手の刀と絡み合わせて、からみ落としたり、突きに対して刀身を返すだけで、鋭い突きを横にかわすこともできる。日本刀は概ね、西洋の剣とは違い、引き斬りに適している。


太刀の数え方

太刀の数え方は、ひと振り・ふた振り、あるいはひと口(ふり)ふた口(ふり)と数える。


刀の表裏

刀には裏と表がある。刀を左の腰に差す時、栗型の付いている側を表と言い、付いていない方を裏と言った。この表側の茎(なかご)にその刀の銘が刻まれた。


刀の寸法

刀の寸法は、戦国時代には様々な形体や長さの刀が作られたが、江戸時代に入ってからは、刀の寸法に規格が設けられた。大刀は2尺三寸五分(定寸)、脇差は一尺以上二尺以下(一尺八寸)、短刀は一尺以下となっている。この規格でなければ城内には入れなかった。一尺(30.3cm) 一寸(3.03cm) 分(0.303cm)


刀身の反り

刀身の反りは、刀身の焼入れと同時におこる現象で、硬い刃の方と柔らかい峰の方とが、焼入れによって、お互いに膨張と収縮が起こり、刀身の反りが出来上がる。


刀身の刃紋

 刀身の刃紋は、刀身の表面に土置き(土取り)といって、各刀匠が独自にブレンドしたドロドロとした土(泥)を置いて、刃紋の出来上がりを想定して土置きのデザインをする。その後に焼入れをする。刃側は薄く塗り、その他は厚く塗る。これで刃の側は硬くなり、鎬(しのぎ)部分から他は柔らかく仕上がる。この焼入れで、刀の反りと、刀の硬軟、刀の刃紋が完成する。 土置きに使う泥(焼刃土=やきばつち)の成分は、砥石の粉・耐火性のある特殊な土と炭の粉などを刀匠が独自にブレンドしたものである。各刀匠達の個性・作風・実力がこの工程ではっきりと現れるのがこの焼入れの工程である。 


太刀の両手(もろて)遣い

平安末期から鎌倉時代にかけて、片手で操る「剣」から「太刀」に変わり両手で刀を扱うようになった。これは戦場で長巻(ながまき)と呼ばれる、長刀が用いられるようになったため、長く重いので両手で太刀を扱うようになったと言われている。もうひとつの説は、戦国時代、兵士は、日頃は農業をして米や野菜を作り、いざ戦が起きれば鎧兜や武器を持って戦った。つまり半農半兵であった。稲作中心の日本人は、両手で鍬(くわ)や鋤(すき)を使っていた。農耕民族としては両手のほうが刀を使いやすいことから両手遣いとなったと言われている。 


納刀の方法

納刀の方法は大別して二種類の方法がある。それは「縦納刀」と「横納刀」である。 また、垂直に納刀したり、前面で水平に納刀したりと、剣術流派や剣技によって実に様々な納刀がある。また、くるくると刀剣を回転させて納刀するやり方もある。水平・垂直・螺旋状にくるくると回転させる回転納刀である。舞台や映画などでやれば実に格好良く、良く映える。


刀の紛失・破損をまねいた武士

刀は武士にとって「武士の魂」であり、代々祖先より伝わった家宝である。また大変に高価なものであった。粗忽者の武士が、扱いを誤って、踏んで破損させたり、飲屋・旅籠・料理屋などで、刀の置き忘れ・紛失をすることがよくあった。その場合には、罰を課せられたり、役職降下、罷免、あるいは場合によっては藩を追われたりした。殿様などから賜った宝刀であればなおさらであった。 


控え目釘

刀剣において、自分より強い相手と対戦する時、体躯の大きい相手と真剣で勝負する時、または、新刀の試し切りで罪人の体を二ツ胴・三ツ胴などと重ねて斬る時などに、目釘の穴を一つ増やして「控え目釘」という細工をする。一つ穴では相手の重い圧力・衝撃で目釘が折れて、刀の柄が抜け落ちてしまうからである。戦場で振り回す大刀も控え目釘が施してある。


鐺返し

相手の後ろから、刀の鞘の端、鐺(こじり)を掴んで、相手の前に押し出したり、引き上げたりして、刀が抜刀できないようにすること。


日本刀の弱点

折れず・曲がらず・よく斬れると言われる侍の刀であるが、意外と折れやすい弱点がある。それは、刀剣の部位で言う所の「峰(みね)=棟(むね)」と「平(ひら)=平地(ひらじ)」とよばれる鎬(しのぎ)部分から平地の面である。この部分は刀剣の硬い刃の衝撃で簡単に折れる。事実、戦後すぐに日本占領のため上陸したアメリカ進駐軍(GHQ)は、日本軍と日本人に対する武装解除として、日本人が持っている軍刀と日本刀の供出を命じ、日本中の日本刀を集めて処分した。その時に効率よく処分するために、日本刀の峰(棟)と峰(棟)を両手でカチ合わせて、バラバラにして処分したと伝わっている。余談ながら、この時に国宝・重文の日本刀、世に隠れた名刀数百万振りが失われた(流出した)(一説によると300万ふり(本))と言われる。この時に流出した日本刀が、欧米の博物館や美術館に今も展示・保管されている。


日本刀の輸出

日本刀は、平安時代の後期から、海外、特に中国に輸出されていた。中国では日本刀は「宝刀」「倭刀」(わとう)と呼ばれ、珍重された。折れず・曲がらず・よく斬れるというだけではなく、その金銀玉の宝飾、透かし鍔(つば)の技巧・金工・漆芸に至る、絢爛豪華で機能美を生かしたデザインなどが好まれていたようだ。中国では、日本刀の、邪を払い・魔を下すと言った霊力が信じられていたようで、この日本刀を佩いて歩く中国人もいたそうだ。日本刀は、祭祀具や美術品・工芸品・武器の役割として平安時代から輸出されていた。特に室町幕府の時代には、歴史上際立って、刀剣が輸出された時代で、幕府の大きな財源となっていた。また平安後期の時代、中国では「宋」の時代、北宋の政治家・学者・文化人で詩人の欧陽脩(おう・ようしゅう)が日本刀を賛美する漢詩を七言絶句で残している。

日本刀の輸出は、途切れる事なく今も続いている。欧米では日本刀の市場があり、一説によると数百万振りの日本刀が流通しているそうだ。この中には、明治維新での廃刀令による流出、大東亜戦争(太平洋戦争)当時の戦場での戦利品・記念品として持ち去られた軍隊の日本刀・サーベル軍刀などもその中にある事は確かであろう。また7年に及ぶ、アメリカ進駐軍(GHQ)の占領による、日本人に対する武装解除の時に供出された日本刀も当然入っている。


🔶アジアに影響を及ぼした日本刀

タイには、遅くとも16世紀には日本刀が輸入され、格式の高い刀剣として、タイの王族・貴族に使われていた。江戸初期に鎖国政策がとられ、日本からの刀剣の輸入が途絶えてしまった。その後、タイ国内ではこの日本刀を骨格とした、日本式刀剣が作刀されるようになった。2017年に東京国立博物館で「タイ‐仏の国の輝き‐展」が開かれた時に、ラーマ3世王時代に作刀された「金板装拵刀」(きんばんそうこしらえかたな)が展示された。この木に金の薄板を張り付けた刀剣は、王位継承権のない上級貴族にだけ佩刀が許されていたそうだ。この刀剣を「各部に日本刀を原点とする特徴が明確に残っている」と研究員は分析・評価している。このようにアジアにも広範囲に日本刀が伝播し、日本刀の価値が高く評価されていたようだ。